禁止と自由

「禁止が先」の社会と、「自由が先」の社会

禁止と自由のどちらが先に来るかによって、創造力の範囲が定まるのではないか。

最近はそんなことを考えている。

これはどういうことかというと、先に禁止が来ると、自由はその「隙間」に存在するものになって、その隙間の中で創造力を働かせることになり、先に自由が来ると、禁止が逆にその「隙間」に存在するものになって、創造力の拡大余地が大きくなる、そんなイメージである。

言うまでもなく、僕たちの日本社会は前者(先に禁止が来る社会)に属している。

あらゆる禁止事項(校則・社則・社会の目)が先にあって、その間を縫って、僕たちは自由を何とか見つけ、その中で創造力を発揮させようとする。

それはある時代まではとても有効であったけれど、現代ではそうでもなくなってしまった。

今日はそんな話をしてみようと思う。

日本社会の生きづらさの正体

僕は日本社会に生きづらさを感じている。

それは日本企業と言い換えても大して変わらない。

茫漠とした息苦しさ。

それにいつも苛まれている。

その原因の一端として、禁止が先にある社会というのがあるのではないか、というのが今回の話である。

いや、禁止というと適切ではないのかもしれない。

自粛グレーゾーン、要は、明文化はされていないけれど、抑制的な社会的常識・規範みたいなものによって、否応なく行動が制限されているような状態、が僕たちの社会を息苦しくしているような気がしている。

「ダメとは言っていない。でも…(わかるよね)」という無言の圧力が、僕たちから創造力を奪っている。

そんな気がしている。

責任を取るべき主体者の不在

それは「責任という概念の抽象化」から生じるものなのかもしれない。

この国においては、責任を取るべき主体者というものが存在しない

意思決定が「その場の雰囲気」によってなされた結果、その成否に責任を持つ者が存在しなくなる。

合議と言えば聞こえはいいけれど、ただの責任逃れに過ぎないものである。

別に「責任を取れ」ということを言いたい訳ではない。

ただ単純にスタート地点を定めたいだけである。

失敗を失敗として総括し、そこから議論を立ち上げて次へ進みたい。

ただ、それすらもうやむやになってしまう。

禁止と言うことすら、責任を伴うし、それを回避しようとする。

禁止と禁止っぽいもの

だから、厳密に言えば、それは禁止とは言えない。

「禁止っぽい」ものである。

いや、だからこそ、余計に自由な部分が狭まるのかもしれない。

禁止なら禁止の方がまだマシである。

グレーゾーンとそのグラデーションによって、創造力を働かせる余地がどんどん少なくなる。

それが「考えない人」「考えない社員」の増加の原因なのではないか。

そんなことを考えている。

自由を見つけることの困難性

マネジメントという仕事をしていると、この種の何とも言えない徒労感に襲われることがある。

「禁止なら禁止と言ってくれ、その間に自由を見つけるから」であるとか、「後出しじゃんけんはやめて欲しい」であるとか、そのように思うことが頻発すると、この僕でさえ考えることが馬鹿らしくなることがある。

そういう意味では、僕たちが生きるこの社会においては、禁止以下の創造力しか働かせることができないのかもしれない。

それでは生産性の改善など夢のまた夢である。

これは新事業とその規制ということにも繋がってくる。

日本において新しい産業が勃興してこないのも、規制が先にあること、いや、「規制っぽい」ものが先にあることに原因があるのだ。

規制なら規制の範囲を明確化してくれれば、まだそれ以外で自由を模索する余地がある。

僕たちの社会にはそれすらない。

それでは世界と戦うことはできない。

規制緩和じゃなくて、まずは規制の明文化を

もう少し言えば、これは民主主義みたいなものとも関係してくるのかもしれない。

自由が先にある国では、まず自由にやらせてみて、問題が起きたらそれを規制する、という順番で物事が進んでいく。

その問題というのも、みんなで考えて決めるものである。

一方、自由がない僕たちの国においては、規制というのは天から降ってくるもので、その規制の範囲もお上の気分次第で変化してしまうものである、という考えが染みついてしまっている。

自縄自縛というか、自らの手で自らの行動範囲を縛ってしまっている

そういう意味では、まず僕らがすべきことは、規制緩和ではなくて、規制の明文化なのではないか。

禁止事項をきちんと定義すること。

後出しじゃんけんをしないこと。

そのくらいから物事を始める必要があるような気がしている。

後出しじゃんけんはナシで

もちろんそんな状態では、自由が先に来る国々と戦うことは難しいだろう。

でもそうであっても、現在に比べればまだマシである。

せっかく自由を見つけたと思っても、「やっぱそれ禁止ね」と後から言われるのでは先行者利益はなくなってしまうし、アイディアを出すこと自体が馬鹿らしくなってしまう。

そんな状況で「考える社員」など生まれるはずもない。

生産性の向上など望むべくもない。

自由や民主主義はもう少し先の話だ。

まずはそこから物事を立ち上げよう。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

規制緩和ということはよく言われますが、規制の明文化(強化ではない)ということを言っている人はあまりいないような気がします(ただ僕が無知なだけかもしれませんが)。

でも僕にはこれは1つの発見でした。

というのは、いきなり「自由ね!」ということを言っても僕たちは思考停止してしまうと思うのですが、規制の範囲を定めた後で、「自由を見つけてね!」というのは僕らの得意分野であるような気がするからです。

限られた領土で、限られた資源で、土着のモノと異文化をミックスさせて、想像もつかない形に進化させることが僕たち日本人は得意です。

その為には、まずは禁止を明確にして、その余白を存分に楽しむこと。

そこから始める必要があるような気がしています。

共感して頂けたら幸いです。