45歳「定年制」への違和感

現状の日本企業の問題を考える良い機会として

サントリー社長による「45歳定年制」という発言が物議を醸しているらしい。

議論の方向性や展開を見ると、企業の新陳代謝を促進しなければならない、であるとか、セカンドキャリアを考えなければならない、であるとか、個人が自立できる環境を整備する必要がある、とか、そんな話になっているようである。

一方で、人生設計が難しくなる、であるとか、住宅ローンはどうするんだ、であるとか、ただのコスト削減ではないのか、であるとか、そういう意見もあるようである。

そういう意味では現状の日本企業(社会)の問題を考える良い議題だったように思える。

僕は新浪社長が発言した時の話の流れや空気感やニュアンスがわからないので(言葉というのは文脈がとても大事である)、その真意がどこにあったのかがわからないまま(そしてその努力を怠ったまま)話を始めるのは不公平な気もするけれど、あくまでもその「語感」から僕が考えたことを書いてみようと思う。

参考になるかどうかはわからないし、僕も勢いで書いている部分があるので、その辺りは差し引いて読んで頂けるとありがたい。

「45歳」という年齢に関する議論が殆ど

議論をざっと読んで僕が感じたのは、「45歳定年制」という言葉の「45歳」に比重が寄っている、ということである。

要は、年功序列型賃金制度であるとか、正社員制度みたいなものを考えた時に、45歳という年齢が人生においてどのような年齢であるのか、ということに焦点が置かれて、議論が進んでいるように僕は感じた、ということになる。

そこには、「働かないおじさん」というイメージが横たわっている。

きっと僕と同じように、皆さんの職場にも「働かないおじさん」がいて、その人達が高給を貰っているのはけしからん、という具体的イメージから議論が始まって、いやいや、でも自分もいずれそのような年齢になる(もうなっている)のだし、その時には子供もいてお金もかかるだろう(かかっている)し、その年で追い出されるのは厳しいよな、みたいな感じで話が転がっていく。

そこに正社員と非正規社員の格差であるとか、雇用保障であるとか、中途採用市場の整備状況であるとか、社会保障制度であるとか、その他諸々のものが載ってくる。

そうやって議論は混迷を深めていく。

「定年」を「定める」のは会社である、という前提への疑問

ただ、僕が思ったのは、「45歳」という言葉よりも「定年制」という言葉についての議論はあまりないな、ということである。

僕が違和感を覚えたのは、自分の人生のハンドリングを会社に委ねていることが議論の前提としてある、ということである。

裏を返せば、45歳までは雇用が守られている、ということが多くの人の無意識の内にあって、生殺与奪の権利は会社が持っている、というようなイメージがあるのだな、ということである。

「定年」という言葉の、退職年齢を「定める」主体者は「会社」であり、「自分ではない」ということに、僕は何となく居心地の悪さを感じる。

誤解を生みそうなので、もう少し詳しく書いていく。

僕は会社を全く信用していない

そもそもの前提として、僕は会社というものを全く信用していない。

そこがたぶん大きな違いなのだと思う。

極端な話、明日クビを切られることだってあるよね企業というのはそもそもの存在形態として営利を主目的とするわけで、給与というのはコスト(固定費)であるし、それを削減することで利益を生み出そうとするのは当たり前だよね、という概念が僕にはある。

会社は親や家族ではないし、従業員に対する愛情なんてある訳がない。

僕だって愛社精神がないわけではないけれど、雇用制度というのは「そういうもの」で、「情」と「理」というのはまた別の話である、と思っている。

だから、何というか、「定年」というものに対しての「思い入れ」が僕は他の人よりは弱いのだと、今回の45歳定年制の議論を見て思ったわけである。

望むから裏切られる

定年まで勤め上げて花束を貰って職場を去る、というような昭和イメージがまだまだ多くの人にはあるのかもしれない。

実際には思っていなくても、そうであって欲しいという願望があるのかもしれない。

そういう意味では僕はとてもドライであるし、冷めているのかもしれないとも思う。

もちろん僕だって雇用は守って欲しいと思うし、安定した人生設計を立てたいと思っているし、その為に企業は努力し、コスト削減せずとも利益を出すべきである、と思っている。

でも、そうじゃなくても仕方ないよね、という諦念はある。

「会社に尽くしたのに裏切られた」というような想いは僕にはない。

「そういう目に遭ったことがないお前に何がわかるのか!」と言われれば、確かにそうなのだけれど、望むから裏切られたと思うわけで、そもそもの感情がゼロであれば、そう思うこともないのだ。

僕にあるのは虚無である。

虚しさ、である。

おじさんのおじさんによるおじさんの為の議論

生まれてからずっと僕はそのように世界を見てきたから、右肩下がりの時代を生きてきたから、感情が欠落しているだけなのかもしれない。

中二病のまま、僕は働き続けている。

その乖離みたいなものを僕は45歳定年制の議論を見て、感じたのである。

就職氷河期以降の若い世代の雇用環境なんてもっと悲惨じゃないか?

僕はそんな風に思っている。

おじさんのおじさんによるおじさんの為の議論(雇用側も被雇用側も)。

僕たちが働きづらいのも無理はないわけだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

今回の話は、会社における「違和感」とも通じているような気がしています。

たぶん多くの人は、自分が給与に見合うだけ働いているとは思っていない、でもそれを何となく誤魔化しながら働いている、ということが僕にはよくわかりました。

そしてそれを「適切な賃金にする」ということは、「年収が下がる」ということと同義(「上がる」ではなく)であって、それは何としても避けたいのだな、ということも感じました。

もちろん最低限のセーフティネットは必要ですが、ある程度の成果給(傾斜)をつけることを考えていかないと、そもそもの雇用すら守られなくなってしまいます。

給与に見合う成果を出していきましょう。