他責の構造

Photo by Dan Burton on Unsplash

他責から自責へのマインドチェンジ

マネージャーになって最初に変えなければならない意識が、「何事も自分事として考える」ということである。

もちろん全てが全てマネージャーの責任である、というわけではない。

そのように考えてみる、ということである。

責任の一端が自分にあるのではないか、と思いを巡らすことによって、チームや組織の問題点に気づくことができたり、それを変えようという方向に意識が向くようになる。

それが「自分には関係ない。あいつらが悪い」という思考方法になってしまうと、何も建設的な議論は生まないし、実際にチームや組織も改善していかない。

ただ、残念ながら組織内には(自覚的か無自覚なのかは別として)「他責型」のマネージャーはとても多い。

今日はそんな話をしていく。

セクショナリズムとムラ社会

大企業病と言われる病の種類の中にセクショナリズムというものがある。

これは各部署が協力し合うことなく(どちらかというと対立構造に持っていき)、内部の論理を優先させる一方で、外部からの干渉を排除しようとする傾向のことを指す。

ムラ社会、と言い換えてもいい。

要は、自分達の現状を変えることを拒否し、外部から踏み込まれることを拒絶し、「悪いのはあいつらだ」と言明することによって、集団内の結束を高め、それ以外の者を排撃する、ということである。

免罪符はないぜ?

仕事が細分化され、最適化(実際にそれが「最適」かどうかは別として)されている現代においては、自分のテリトリーにのみ意識を向け、それ以外のものは関係ない、というスタンスを取ることは、責任を回避する為にも重要な要素である。

ましてや、その内部での仕事を効率化させていけばいくほど、「それ以外の仕事」というのは余計なもの(タスク)でしかなくなってしまうのだ。

こうやってチームや組織は「タコつぼ化」していく。

そしてマネージャーもその例外ではない。

ただちょっと待て、と僕は思う。

組織の中で働いている以上、自分が完全に免責されるということは起こりえない。

ましてやチームくらいの規模であれば、マネージャーにも責任の一端があるのは当然である。

そうやって問題の一部を引き受けること。

引き受けようとすること。

それがマネージャーとしての大事な心構えである。

部下を守ること

人事異動によって違うチームを担当することになった後に、かつてのチームの部下と話をする機会があって、「課長はだいぶオレ達を守っていてくれていたんですね」と言われることが僕にはよくある。

会社の中には他責型のマネージャーがたくさんいて、その責任をどんどん部下に押し付けていく構造が厳然としてあって、僕は少なくともそれを弱めていたということが部下にもわかるようである。

そしてそれが如何に希少であるか、ということも含めて。

僕みたいな奴は組織内で上昇することができるはずがないのだ

これはスタンスというか、価値観の問題なのかもしれないけれど、マネージャー(特にミドルマネージャー)の仕事というのはそういうものであると僕は考えている。

給与の中にそういう仕事をする部分(手当)が含まれていると思っている。

でも、自分でも思うことではあるけれど、組織内での立ち回りとしてはそれはとても不利なことでもある。

上司に楯突くことなく、言われたことを言われたまま部下に下ろしていれば、自分のプライドは傷つかないし、責任も回避できる。

出世や昇進に響くこともない。

そういう振る舞いを僕は数々目撃してきたし、部下の立場でそういう目にもあってきた。

その度に「なんだかな」と思うことになった。

それは責任の一端は自分にもあるよな、という(僕からすれば)至極真っ当な考えによるものである。

組織に所属している以上、そして管理職の立場にいる以上、全責任が部下にある、なんてことは起こりえない。

間違いなく、僕にも原因がある。

それを棚に上げて、部下を叱責するような図々しい真似は僕にはできない。

侍たちは死に絶えた

社会に「大人」がいなくなって久しいと僕は思っている。

大人というのは、責任を引き受ける人達のことである。

それも自分のことでなくても、自分が原因でなくとも、責任を引き受けようとする心持を持った人達のことである。

そういう矜持を持った人、所謂「侍」型の人は絶滅してしまったようである。

自己陶酔野郎の末路

絶滅してしまったものに思いを馳せても仕方のないことであることは僕だって理解している。

ただ、自分もその類の人間になることは、僕には耐えられないのだ。

そういう意味で僕は「甘い」と言えるのだろう。

組織の中で上昇していく為には、非情にならなければならない局面がある。

それは僕だってわかっている。

ただ、そういう仕事の仕方をしてまで僕は上昇していこうとは思っていない。

そういう下らないプライドが、子供ばかりの世の中において邪魔になることも理解しているつもりである。

僕はそのように不器用な自分を嘲笑いながら、そういう自分に酔いながら、でも一方で凄く信頼してもいる。

僕にできることはただ成果を出すことだ。

それ以外のことは他者が決めることである。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

仕事というのはある時点から価値観の問題に転換する、最近そんなことを考えたりします。

金や地位や名誉やプライドなどなど、どこに重点を置くかは人それぞれで、それについて僕がとやかく言う問題ではないのでしょう。

でもそれは逆に言われたくもないということでもあります。

僕は寝覚めの悪いことをしてまで出世したいとも思いませんし、死の間際になってそんなことを思い出して苛まれたくないのです(いや、それをやらなかったことによる後悔によってきっと僕は身悶えするのでしょう)。

ありがたいことに、こんな僕のことを信頼してくれる人が少しだけいる。

その人達を裏切らないような仕事をこれからもしていこうと思っています。