生産者と消費者

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与える者。与えられる者。

以前に書いたことと重複するかもしれないけれど、「消費者マインド」を持ったビジネスパーソンがとても多いと感じている。

というか、殆どがそうなのではないか。

だから、そうでないマインド(ここでは「生産者マインド」と呼ぶことにする)を持つことができれば、その人は頭一つ抜け出ることができる。

そんなことを考えながら、周りを見渡してみると、社内でも「できる人」というのはこのマインド面での違いがとても大きいように思えてきた。

何かを与えるか、与えられるか。

ケネディの名言(国家があなたに…)ではないけれど、そのくらいのメンタリティがある人は、放っておいても勝手に伸びていく。

今日はそんな話だ。

かつての成功の要因に受動性があった

日本の生産性の低さの要因の一つが、受動性にあると僕は考えている。

これは島国だから仕方ないのかもしれないし、教育上の問題なのかもしれないし、原因はわからないけれど、要は「外部刺激」が先にあって、それに「反応する」という行動様式のことを指す(ことにする)。

キャッチアップ型においてはこれは途轍もなくハマった訳で、「ジャパンアズナンバーワン」なんて言われるくらい、かつて日本経済は大成功を収めた。

その要因が「受動性」にあった。

そんな風に僕は考えている。

先手と後手

これは「後手」と言い換えてもいい。

何らかの「先手」があって、それに対してベストなパフォーマンスによって応える、ということに関して、僕たち日本人よりも上手にできる人種はたぶんいないだろう。

コール・アンド・レスポンス。

僕たちはそれを磨くことで飯を食ってきたわけだ。

ただ、現代においては、それが欠点になりつつある。

VUCA(既に死語か?)の時代においては、何らかの先例があることはないし、もしあったとしても既に「総取り」されてしまっているのである。

僕たちはそれをただ享受するだけ。

消費者としてただ金を払い続けるだけ。

我々は雇われているという事実

冒頭に書いた「消費者マインド」というのは、誰かが何かを与えてくれる、気に食わなければ買わないし、買ったとしても満足できなければそれは売り手の責任である、というような考え方や態度のことを指す。

そして、自分は金を持っているので相手よりも立場が上である、その私に傅くのは相手の仕事である、というような心持ちのことを指す。

上記したような純粋な消費者であれば別に構わないけれど、ビジネスパーソンとしてそのような心持ちのまま仕事をするのはどうかと僕は思っている。

会社が何かを与えてくれるわけではない。

気に入らないからといって、誰かがケアしてくれるわけではない。

文句(クレーム)を言えば、慌てて相手が対処をしてくれる、なんてことはない。

残念ながら、僕たちは「雇われて」いるのだ。

完全に無罪ということはない

雇われるということは、そこに対価が発生している訳で、最低でもそれに見合う仕事はしなければならない。

もちろん、昨今では「ブラック企業」と呼ばれるような、労働とその対価があまりにも釣り合っていない会社があるのも事実である。

そしてそのような会社であっても、個人的な事情から勤め続けなければならないという方もいるだろう。

でも、例えそうだとしても、その方が「完全な被害者」であるとは限らないのだ。

同情はする。

9割以上悪いのはその企業であるだろう。

でも、その人にもそこで勤めることになった責任はあるはずだ。

そしてその環境を変えようとしたり、そこから逃れようとしたり、何らかのアクションは取れるはずなのだ。

あなたはそういう人物を雇うだろうか?

僕は「奪還論」みたいなものがあまり好きではない。

「私たちはずっと虐げられてきた。あいつらはずっと搾取を続けてきた。だから私たちはあいつらから奪還する権利がある」

気持ちはわかる。

そしてたぶん9割以上合っているのだろう。

でも、そのようなマインドではいけないのだと思う。

消費者マインド、奪還者マインド、言葉は何でもいいが、自分にはその権利があるということだけを主張するだけでは(義務を負わなければ)、何も変わらない。

自分がビジネスを始めたとして、そのようなマインドを持つ人物を雇うだろうか?

雇わないだろう?

どんなに贔屓目に見たって、それが現実なのである。

批評家と評論家ばかりの世界

もちろんこれは社畜になれ、ということではない。

身を粉にして働け、ということでもない。

それ相応の仕事はするべき(その水準感はあるが)ではないか、ということである。

生産者は批判される。

モノを作ると、消費者は文句ばかり言う。

自分では作ろうともしないくせに。

評論家たちは何も生み出さない。

世の中にはクソリプが溢れかえっている。

そこに色々な思いがあることは理解できる。

でも、たぶん、それではいつまでも変わらないのだ。

そうやって僕たちは没落していくのだろう

新しいものを作れば批判が起きる。

もっと言えば、多くの人がその芽を摘もうとする。

「意識高い系」などと揶揄する。

それはある程度やむを得ないことなのかもしれない。

でも、その砂場はいつかなくなる。

公園は撤去される。

そうなってからでは遅いのだと僕は思う。

まあただ僕がそう思っているだけではあるが。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

経営者と労働者は雇用関係にあって、それは単なる契約に過ぎない。

そういう感覚をもって働いている人はどのくらいいるのでしょうか?

本文ではやや経営サイド寄りの書き方をしましたが、それは僕がマネージャーとして働いている中で、あまりにも受動的な部下が多すぎると感じているからかもしれません。

突き放すような言い方になってはしまいますが、自分の人生は自分で何とかするしかありません

ママが涙を拭いてくれる、傷口に絆創膏を貼ってくれる、なんてことは起きません。

自分で涙を拭い、傷の痛みを抱えながら、立ち上がるしかないのです。

受け身ではなく、何かを生み出しましょう。

生み出せないなら、生み出している人を揶揄するのはやめましょう。

それだけで社会の雰囲気は少しは変わるはずです。

嫌になることも多いですが、新しいものを生み出していきましょう。