イエスマンを望むマネジメント
同質的なチームの方がマネジメントは簡単
多様性が必要である、という言説に対して、公に「そんなことはない!」と言える人はそんなに多くないだろう。
ただ、自分のチームに多様性を取り入れられているか、というのはまた違う種類の問題である。
実際に多様な人間をマネジメントするのと、多様性が必要であると対岸から述べるのでは、天と地ほどの違いがある。
同質的なチームと、そうでないチームであれば、ぶっちゃけて言えば、前者の方がマネジメントは簡単である。
自分の言うことに対して同じような反応を示すのと、それぞれがてんでバラバラなことを言いだすのでは、マネジメントの難易度が大きく異なる。
そして無意識の内に、楽な方を選んでしまいがちなのが人間という生き物の悲しい性である。
今日はそういう話をしていく。
気持ちはよくわかる
権力者の周りにイエスマンばかりが集まるのは、マネジメントをやっていると何となくわかるような気がする。
それはもちろん周りの人間の阿りや忖度、出世したいという欲望などなど、下位者側の思惑も関係しているとは思うけれど、上位者は上位者でその方が統治しやすいし、平時においてはそれで何も問題が起きないからであると僕は思っている。
言うこと為すことに対していちいち突っかかってこられたのでは、確かに日常業務に支障をきたすし、それをいちいち説明して納得してもらうのでは労力がかかり過ぎる。
それなら、聞き分けの良い子供たちのように「はい!」と言ってくれる集団を自分の部下としたい。
その気持ちはとてもよくわかる。
考えない部下を無意識的に望むマネージャー
以前にも書いたことではあるが、マネージャーの「部下が考えない人ばかりで困る」という悩みは、マネージャー自身がそのような状態を(無意識的に)望んでいる可能性がある、ということを考慮しながら聞く必要がある、と僕は思っている。
部下が考える人ばかりであれば、それぞれの意見が出てくるだろうし、それに対処していくのは骨が折れる。
本当にそのような事態になった時に、そのマネージャーがそのような「考える人達」をマネジメントできるのかどうか、は僕には甚だ疑問である。
彼らは部下が考えないことを嘆きながら、それを構造的に望んでもいるのだ。
両者の思惑が一致した結果としての考えないチーム
そして仮に部下の中に考える人が1人でもいたとして、その人が日々マネージャーと喧々諤々議論をしていたとすると、周りの人間は「面倒な人である」というレッテルを貼るだろうし、「つべこべ言わず聞いておけばいいんだよ」と思うはずである。
早晩、その人はそのチームから浮くことになるだろう。
そうやって両者の思惑は一致する。
イエスマンの方がマネジメントしやすいと考えるマネージャーと、イエスマンでいる方が仕事が楽であると考えるメンバー。
結果として考えないチームが出来上がる。
ちょっとトリッキーな議論にはなるけれど、僕はそんな風に考えている。
大人と子供
これはマネージャーが、「大人」を望むか「子供」を望むかという話にも繋がってくる。
「大人」のチームは、メンバーそれぞれが考え、マネージャーはあまり口出しをしない。
「子供」のチームは、マネージャーが方針を示し、メンバーはそれに首肯するだけである。
学校における教師というものを想像してもらえばわかるように、大人たちを小学生のような方法でマネージすることは不可能であるだろう。
「前ならえ!」であるとか、「右向け右!」であるとか、「起立!」であるとか、そのような有無を言わさぬ命令に対して、大人たちは「は?」「何であんたの言うことを聞かなければならないのだ?」という疑問を提起してくるはずである。
それに対して、「いや、前にならわなければならないのは整列をするためであるし、一定の距離を開けることでその後の準備運動に支障がないようにするためなんだよね」というような説明をするのは、それも1人1人納得させるのは、面倒だし、かなりの技術を伴う。
子供の方が楽だ
日本のマネジメントが上手くいっていないのも、生産性が低いのも、下位者は上位者の言うことを黙って聞いていればいいのだ、と双方が思っていることが関係している、と僕は思っている。
子供でいる方が楽だし、子供に命令する方が楽であるから。
そうやって、僕たちの社会は未成熟なまま、いつまでも進歩していかない。
仕事がつまらないと嘆きながらも、それを改善しようと努力もせず、ただのうのうと日々を送る。
その成れの果てが現在の停滞したムードである。
イエスマンはいらない
仕事を自分の手に取り戻すには労力がかかる。
他人と意見を交わし、落としどころを探るには骨が折れる。
キャリアが異なる人々をマネジメントするのは手間がかかる。
でも、そこから目を背けて、安きに流れてはいけないのだと思う。
大きな流れを変えることは難しい。
でも、いつも言う話だけれど、自分のチームくらいは変えられる可能性がある。
僕は(面倒くさい)大人たちが集まるチームで仕事をしたいと思っている。
その為に、時間を尽くし、言葉を尽くし、周りの人達からは無駄だなと思われるようなことに心血を注いでいる。
イエスマンはいらない。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
「シンプル化・効率化は善だ」という言説には一定の留保条件が必要であるように感じています。
特にチームマネジメントにおいては、シンプルであることや効率的であることが成果に直結するとは限りません。
これは民主主義と独裁と言い換えてもいいのかもしれません。
面倒くさいプロセスを踏むことでしか、得られないものもあります。
面倒くささを歓迎していきましょう。