情から理へ
湿り気と乾き
ウェットなマネジメントにうんざりしている。
ここで言うウェットなマネジメントとは、「情」を主軸としたマネジメントのことを指す。
情を主軸としたマネジメント?
これを言葉で表現するのはなかなか難しい。
浪花節、お情け頂戴、忖度、配慮、察する、空気を読む、一生懸命、根性、努力、飲みニュケーション、同族意識、子供、イエスマン、などなど、そういうものがごちゃ混ぜになったものを僕はウェットなマネジメントと呼んでいる。
対して、乾いたマネジメントがある。
これは、ウェットなマネジメントと逆のもの、「理」を主軸としたマネジメントで、論理、数字、客観性、再現性、統計、データ、仕組み、大人、建設的議論、多様性、みたいなものの総体のことを指す(ことにする)。
書きぶりからご理解頂ける通り、僕は旧来の「情」のマネジメントから「理」のマネジメントへシフトする必要がある、と考えている。
それでは話を始めていこう。
ウェットなマネジメントはおじさんだけのものではなかった
「情と理」というテーマを書いた途端、「おじさんと若者」という(対立)構造が頭に浮かんだのだけれど、すぐに思い直すことになったのは、若者の中にも「情」的なマネジメントをしている者がいる、ということである。
そして彼ら(彼女ら)は別にそれをおかしなものだとは思っていない。
このことが僕に今回のテーマを書こうと思わせたのである。
多くの若者たちは、旧来のウェットなものを(どちらかというと)好ましいものだとは思っていない、と僕は考えていた。
そして実際に自分の部下と話をしたり、仕事をしたりしていても、そのように感じることが多かった。
しかしながら、彼ら(彼女ら)が成長し、マネージャーになった途端、ウェットなマネジメントを始めることに、僕は愕然としたものである。
なぜ彼ら(彼女ら)は毛嫌いしていたはずのウェットなマネジメントを行ってしまうのか?
僕の仮説はこうだ。
「そのやり方しか知らないから」である。
世代間再生産
彼ら(彼女ら)は自分が成長する過程で、「マネジメント=ウェットなマネジメント」という固定概念を抱いてしまう。
そしてそれは固着と言ってもいいくらいの強い概念である。
例えが適切かどうかは別として、これは僕に「虐待された子供が大人になった時、自らも虐待する親になる」というようなことを思い出させる。
それがなぜ起こるのかについては心理学に譲るとして、マネジメントの世界においてもこれと似たような事象が起こり、世代間リピート(再生産)みたいなことが行われている。
ここに僕は危機感を覚えている。
そしてそれはマネジメントの曖昧性みたいなものが関係しているだろうと僕は思っている。
マネジメントの曖昧性
マネジメントには正解はない。
王道の攻略法も、必勝法もない。
ある事象を始めてから成果が出るまでにはタイムラグもある。
そのような漠然とした不安感、自分が行っていることが適切なのかどうかわからないまま、仕事を進めざるを得ない現実がある。
これが僕が考えるマネジメントの曖昧性である。
不安感と不安定感が人をウェットなマネジメントに誘導する
人を相手にする仕事であるので、その時々の状況に応じて、ある種アドリブ的に振舞うことがマネジメントには求められる。
そしてそれは即興性があるものなので、再現性に乏しいことが多い。
以前同じような場面で有効だった方法が、今回有効であるとは限らない。
むしろ裏目に出てしまったりもする。
そういう不安感・不安定感がマネジメントにはあるから、何らかの「拠り所」と「言い訳」を求めたくなる。
それが(たぶん)ウェットなマネジメントなのだろう。
マネージャーはそのチームの兄貴的存在であるべきなのだろうか?
「拠り所」と「言い訳」と書いたのには理由がある。
マネジメントというのは計量不可能であるから、自分がきちんと行っているという証明書が欲しくなる。
その気持ちはわかる。
そしてチームとしての一体感みたいなものがあれば、マネジメントは上手くいっているはずだ、同じような考え方の者が集まり、結束が高まれば高まるほど成果は上がるはずだ、という(ある種原初的な)イメージがあるのだろう。
マネージャーというのはメンバーの「オヤジ」や「アニキ」的存在であるべきで、その派閥の結束性を高めるべく、考え方も行動様式も統一すべきである、さすれば成果が上がる、成果が上がらないのはその統一性を乱す奴がいるからだ、本気でやっていないからだ、みたいなことを考えているように僕には見える。
僕らかしたらコメディであるこの種の幻想(信仰)は圧倒的多数派であって、僕みたいな冷めた奴は殆どいないようである。
純化と排他
僕は昔から集団行動が苦手である。
というか、思想統一の強制みたいなものが嫌いである。
義務教育で行われるような話が社会人になっても継続的に行われていること、そしてそれに疑問を持とうとも思っていないことに、僕は恐怖心と虚無感を覚える。
僕は仕事としてマネジメントを行い、高い成果を出すことに全力を注ぐ。
部下と肩を組んでゲラゲラ笑うこと、仲間ごっこに興味はない。
徒党を組めば、そうでないものがはじかれる。
純化は必ずしも良いことではない。
僕はそんなことを考えながら、明らかにマイノリティな状況の中で、今日も乾いたマネジメントを行っている。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
付けたしみたいな話になるのですが、ウェットなマネジメントをやっている人達(の多く)は、土壇場になると逃げる(部下のせいにする)というのが、僕が彼ら(彼女ら)を嫌う大きな理由です。
都合の良い時だけ仲間ぶって、そうではない時には急に顔色が変わる。
こういう場面に僕は何度も立ち会ってきました。
僕は仕事としてマネジメントをやっているだけですが、そんな僕よりも薄情な人達がこの世界にはたくさんいます。
きちんとした仕事をしていきましょう。