言ったもん勝ちはズルくね?

大事なのはCを踏まえたAだ

PDCAのCがないのは当社だけの問題なのだろうか?

それとも日本全体で見られる現象なのだろうか?

そんなことをふと思う時がある。

もう少し詳しく言うと、トップマネジメント層の思い付きのP(計画)を、その下のマネジメント層が忖度しながら「とにかくD(実行)だ!」と喚きまくり、ミドルマネジメント層はそれに振り回される、でも結果は出ず、C(評価)も行われない、そして次の思い付きのPへ…、みたいなことが繰り返されているような気がしている。

大事なのはCで、というか、それを踏まえたA(改善)である。

でも、それがなされることはなく、記憶から抹消されて、次のPがまた始まる。

要は、PとDしかしていないのである。

そして不思議なことに、組織の中で評価されるのは、このP型・D型の人、特に声のデカいD型の人である。

今日はそんな愚痴めいたことを書いていく。

β版をアップデートし続ける

失敗は成功のもとである、と言われる。

それは失敗が糧になって、次に繋がるからである。

現代風に言いなおせば、データを採取し、β版をアップデートし続ける、ということになるだろう。

でも、C(検証)がきちんと行われなければ、折角のデータが無駄になってしまう。

そして残るのは荒野だけである。

「検証する=責任を負う」ではない

僕はこの風潮に(マジで)うんざりしている。

この国では、どうやら「検証」というのは「責任を負う」という言葉と同義であるようだ。

そして「責任を負う」ということは、「退場」や「降格」の意味合いを帯びるようである。

これでは現代では戦っていけない。

でも、そう思う人はどうやら少数派であるようだ。

検証という概念がない国民性

日本で新規ビジネスがあまり生まれないのは、たぶんこのようなことが関係している。

失敗を過度に恐れる国民性、みたいなことが言われるけれど、それは一部合っていて、一部間違っている。

それよりも深刻なのは、「検証という概念がないこと」だと思う。

何かをやったらやりっ放し、何かを言ったら言いっ放し。

それを蒸し返すと、「野暮だ」と言われる。

僕はこれが不思議である。

PやDを現実的なものにするために

発言には責任が伴う。

大きなことを言うなら、大きな責任が伴う。

それをなかったことにはできない。

これは何も「責任者出てこい!」という発想ではない。

その人をスケープゴートにしようなんて気持ちはさらさらない。

ただ、1つの循環として、検証というプロセスを頭に入れておくことで、PなりDがもう少し現実的なものになるのではないか、ということである。

現実的なことを考えるのは貧乏くさいことではない

現実的なソリューションは、この国では悲観的だと捉えられる。

貧乏くさいとか、しみったれているとか、そんなイメージが付きまとう。

新しいビジネスを展開しようとするときは尚更そうである。

景気の良い話を聞きたがる。

その気持ちはよくわかる。

でも、それと同時に、上手くいかない時の可能性も考えておかなければならないと僕は思うのだ。

そして上手くいかない時にはどのようにすべきなのかも用意しておくべきなのだ。

それは実現可能性を考量する為である。

現実的と夢物語の2者択一ばかり

上手く表現できないのだけれど、現実的と夢物語の間には大きな乖離があって、2者択一みたいに捉えている人があまりにも多いような印象を僕は受ける。

その間のグラデーションの中に答えはあるはずなのに、それを探ることはせず、景気の良い夢物語を皆熱く語る。

それは別に否定しない。

できると思っているから、きっと言っているのだろう。

だから、「検証は行いましょう?」というのが僕からの提言である。

仮説と検証はセットだ

仮説と検証はセットである。

それがなければ言ったもん勝ちで終わってしまう。

それを僕は不毛だと思う。

でもどうやらそう思う人はあまり多くないようだ。

大きな風呂敷には多くの中身が必要である。

それをD(実行)というプロセスの中で、確実に増やしていかなければならない。

有言実行。

単純なことである。

ロビーぐるぐるはもうやめませんか?

繰り返すようだが、仮に大言壮語を吐いてしまったとしても、C(検証)というプロセスの中で回収できれば、次に繋げることができるのである。

組織なり、その人なりも反省し、次に進むことができる。

でもそれがないから、また別の大言壮語を繰り返すことになる。

僕たちは螺旋階段を昇っているように思っているけれど、ただ1階のロビーをぐるぐる回っているだけ。

そんな徒労感をひしひしと感じるのだ。

根性と精神論のステージを脱するために

検証というプロセスを念頭に置くことで、僕たちはもう少し「まとも」な計画を立て、「現実的」な実行をすることができるはずである。

そしてその繰り返しの中で、適切な仮説を立てられる人がはっきりとしてくるはずなので、その人を組織として引き上げていくべきなのである。

根性と精神論のステージからそろそろ次の段階へ。

それは叶わぬ夢なのだろうか?

確率の高い方法を

成果への道筋は確かにぼんやりとしている。

はっきりとした必勝法はない。

でも、「こうすれば勝てる確率は高いのではないか?」ということは考えることができる。

それを実際にやってみる。

データが得られる。

それを元に次の計画を立てる。

それだけだ。

次へ進もう。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

現実的なことを言うとネガティブだと言われることがあります。

僕はこの感じがイマイチわかりません。

誇大広告めいた話を言う人が持て囃されるのは別に構わないのですが、きちんとその結果は検証しましょうね、というのが僕からの提言です。

敗戦も、震災も、原発事故も、コロナウイルスも、僕たちは簡単に忘れてしまいます。

それは僕たちの長所でもあるのですが、ループをいつまでも抜け出せないという短所でもあります。

未来をアップデートする為に、検証を行っていきましょう。