不寛容な時代にマネジメントをすることの難しさ
親切はカウンターを生まない
直接自分に関係ないことであったとしても、正義を振りかざして「許せない!」と声高に叫ぶ人が増えているように感じている。
「自分の価値観が最善で、それ以外は間違いである」「そしてその間違いは断固として正されるべきである」というような風潮。
僕はこれにうんざりしている。
ただ、そう言っていても時代は変わらない。
このような人達の比率が増えている中で、我々はマネジメントという難行(苦行?)を行わなければならないのだ。
そこでのキーワードは「親切」であると僕は思っている。
正義は別の正義を生むだけであるのに対し、親切はカウンターを生まない。
今日はそんな話をしていこうと思う。
他人を攻撃するのが現代の特徴
他人のことが気になる時代である。
これは何もSNSに限ったことではなく、集団内における「相対的立ち位置」を気にする人はとても多い。
いや、確かに昔から人間というのはそういう性質を持つものなのかもしれない。
集団の中における自分の存在意義を求めるのは、ある種の本能とも言えるものだろう。
ただ、そこから一歩進んで、他人を攻撃する(排撃する)というのが現代の特徴ではないか、と僕は思っている。
「相対的立ち位置」を是正する為に、他者を貶めること全力を注ぐ人達。
自身の振る舞いを改めるのではなく、周囲の環境が間違っていることに対する憤りを全身で表現する人達。
それによって、自分の「相対的」な立ち位置を上げようとする行為。
僕らは常に周囲を窺い、常にイライラしている。
そうやって、内輪で足を引っ張り合いながら、僕たちはズルズルと沈没していくのだ。
多様化する価値観の衝突
現代という時代の中で、マネージャーとして仕事をしていくことはとても難しい。
多様化する社員の、多様化する価値観を尊重しなければならないからである。
そしてその多様化する価値観同士は対立を生じさせる。
上記したように、互いに攻撃し合ったりもする。
彼方立てれば此方が立たぬ。
まさにそんな日常が繰り返されることになる。
成熟を拒否した子供たちの社会
また、現代的な特徴として、「自分のことは棚に上げる」傾向がある。
先程も書いたことだけれど、周囲はよく見ているが、自分のことはまるで見えていない人が増えているように感じている。
これは「成熟」を拒否した「子供たち」の社会になってしまったからである、と僕は思っている。
現代において「大人」は不利だ。
良いことなんて何もない。
でも、マネージャーという仕事は「大人」の側に立たなければならないのである。
苦労は多い。
嫌なこともたくさんある。
ただ、それが現代においてマネジメントという仕事をするということなのである。
寛容と受容と妥協
「大人になる」ということは「寛容になる」ということと同義で、様々な経験を経る中で、世の中には色々な感性を持つ人がいることを受容していくことだと僕は思っている。
それは人によっては「妥協」に映るのかもしれない。
でも、これだけ自我が剥き出しになっている時代においては、妥協も有効な戦術として使っていくしかないのだ。
親切と思い込むこと
そうは言っても、「妥協するのは嫌だ」とお考えの人も多いと思う。
そこで僕からの提案が「親切」である。
これはヴォネガットの受け売りで、僕らにできるのは隣人を愛することではなく(そんな崇高なことはできない)、隣人に親切にすることくらいである、と僕は考えている。
親切にすることだって難しい。
そして「親切」という定義だって、主観的なものに過ぎない。
そういう意味では、「親切」であると勝手に思い込む「お節介」にニュアンスが近いのかもしれない。
不幸競争社会
僕らは消費者社会、契約者社会に慣れ切ってしまっていて、「費用には対価が」「ギブにはテイクが」伴うもの、だと無意識的に考えている。
それも骨身に染みついていると言えなくもないくらいの強度で。
不寛容な人達は、「奪還論(私はこれまで恵まれてこなかった。一方であいつらは恵まれている。だから私には彼らからそれを取り戻す権利がある)」を振りかざして、「イーブン」を目指して他人を攻撃しようとするのだけれど、それは際限がないし、下方へスパイラル的に進んでしまうものだと僕は思っている。
「不幸競争」みたいなものに陥ってしまう。
最強の人は「何も持っていない人」で、これが「無敵の人」を生んでしまう土壌を醸成する。
それはあまりにもつらい。
待っていても何も変わらない
もちろん何も持っていない人(と思っている人も含む)へのセーフティネットは必要だ。
でも、そんなのを待っていたって、社会は変わっていかない。
その中で僕たちにできることは、周囲の人に「親切」にすることくらいなのではないか?
僕はそんなことを考えている。
チームメンバーに親切にするくらいはしてもいいのでは?
何も赤の他人に親切にしなさい、と言いたい訳ではない。
「チームのメンバーに寛容になる(親切にする)くらいのことはしたっていいんじゃないか(たとえそれが「持ち出し」だと思えても)?」
そんなことを考えている。
見返りを期待しても何もないけれど、こちら側の勝手なお節介だと思えば、苛立ちもなくなる。
そうやってカウンターを抑えながら、チームを少しずつ改善していくしかないのだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
今回の文章を書いていて、中学時代の内申点や相対評価が嫌いだったこと、高校生(絶対評価)になってふっと楽になったことを思い出しました。
僕たちは隣組みたいに、周囲を監視し合いながら、自分達の環境を自分達で悪化させています。
それをやめること、できれば親切にすること、でもう少し精神状態が改善するような気がします。
他人の足を引っ張らず、他人に干渉せず、自立していきましょう。