ガードを下げる

隙を見せると、一気に踏み込まれる。でも…

1億総批評家時代だと感じている。

何かにつけて持論を展開し、取り敢えず批判から入る、そんな人が多いように思う。

それが建設的な議論に発展し、事態が良化していくならその批判にも意味があるけれど、どうも「叩きのめす」方に軸足が置かれているような気がしているので、気が滅入ってしまう。

そのような環境では、きっとかつての僕と同じように、ガードを高く保ち身を守ろうとするのも無理はない。

ちょっとでも付け入る隙を与えると、一気に踏み込まれるから。

でも、ことマネジメントにおいては、ガードを下げることはとても重要である。

上手にガードを下げられるようになると仕事がし易くなるし、精神衛生上もだいぶ楽になる。

今日はそんな話をしていく。

影のある中堅たち

若手から中堅に差しかかかるくらいの年齢の部下を見ていると、身を固くすることで自分を守ろうとしている人を時折見かける。

彼(彼女)らは自分ではそう意識してはいないのだろうけれど、営業経験の長い僕から見ると、貝のように閉じこもっている様子がありありと分かる。

たぶん痛い目を見てきたのだろう。

たくさん裏切られてきたのだろう。

他社から転職してきたり、社内で異動してきたり、チームに新しく人が加わるタイミングで、僕はその部下のバックグラウンドに想いを馳せる。

表面上は笑っているし、コミュニケーションも上手に取っているのだけれど、どこか影があるというか。

そしてその感情を吐露する相手や場面がない(なかった)というか。

ガードを高く保つ人達

それはマネージャーである僕と話をする際も同様である。

「上司というのは、表面的には友好的に見えても、最終的には裏切るものだ」というようなイメージが彼(彼女)らにはこびりついている。

腕を高く上げ、どんなパンチにも対応できるよう、顔を覆っている様子。

それを見る度に、そしてその目から光が失われていることを確認する度に、こう言いたくなるのである。

「大丈夫。怖くないよ」と。

自分の凄さを見せつけることで部下に言うことを聞かせようとしていた

僕が7年に亘るマネージャー経験で身に付けてきたものの一つに、「自分のガードを下げることで部下のガードを下げる能力」がある。

「自分は敵ではなく、無害であり、心を開示するに足る人である」ということを理解させることができる。

これは歳や経験を重ねたらからこそできるようになったのだと思う。

僕は変なプライド対抗心マウンティング傾向みたいなものを少なからず若い頃持っていた人間である。

特にマネージャーに成り立ての頃は、自分の凄さを見せつけることで、部下に言うことを聞かせようとしていたような気がする(その時はそうは思っていなかったけれど)。

張り子の虎、というか、ハリボテ、というか。

それが今はなくなったのである。

弱さやダサさを開示すること

これはある種の諦めと結びついているので、必ずしもポジティブな側面だけではないのだけれど、部下との距離感を縮める上ではとても役に立っている。

僕は自分の弱さダサさみたいなものを開示できるようになった。

それは弱さやダサさを開示することは、ある種のカッコよさがあることがだんだんとわかってきたからである。

そうやって自分を下げながら、相手の警戒心を解いていく。

もちろん一定の時間はかかる。

でも、それは漢方薬のように、じんわりと浸透していくのである。

手元の武器を捨てる

弱さやダサさを開示することは、手元の武器を捨てることに似ている。

決闘場で向かい合う相手が武器を地面に落としたら、それは友好の合図になり得る。

「自分は武器を持っていない。そして話し合うためには、あなたも武器を持つべきではない」

そういうメッセージを送るきっかけになるのである。

ノーガード

手ぶらになった僕は、ノーガードで相手に向かっていく。

手の平を、腕の内側を見せながら、ゆっくりと歩み寄っていく。

そうは言っても、初めのうちはなかなか部下も武器を捨ててはくれない。

ただ、時を経るにつれて、武器をこちらに向けなくなったり、地面に置いたりしてくれるようになる。

空になった手はまだ顔を覆ったままではあるけれど。

泥臭い対話

僕は1対1の面談に重きを置いている。

それは外資系企業できっと行われているであろうカッコいい1on1ではなく、泥臭い「対話」である。

仕事の内容も話すけれど、どちらかというと肩書を取っ払って、自分という人間を開示することに時間をかける。

反応がある時そうでない時はある。

人によってもその進度は異なる。

それでいいのだと思う。

仕事なんてその程度に過ぎない

僕は自分に自信を持てるようになったことで、余計なはったりをしなくて済むようになったことで、自然体で話をすることができるようになった。

究極的には、彼(彼女)らがどうなろうと、僕の人生に大きな影響を及ぼすことはない。

でも、折角何らかの縁で一緒に仕事をすることになったのであれば、そのチームに所属する間は、できるだけ楽しく仕事をしていたい。

そして、良いか悪いかはわからないけれど、仕事というのは人生において、「その程度」でしかないのである。

ソーシャルディスタンス

人間同士の距離を詰めるのが難しい時代である。

ソーシャルディスタンスという言葉は、物理的な距離もそうだけれど、精神的な距離も広がっていることを暗示しているような気がする。

そして距離を詰めるのが必ずしも良いことだとは限らない。

相手に無理強いもしない。

でも僕はガードを下げる。

そうやってこれからも仕事をしていくつもりだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

心理的安全性、という言葉が巷に広がってきました。

それが実現できれば素晴らしいですが、僕の実感では日本の組織ではそれはかなり難しいように思われます。

というのは、日本人は「いじわる」だからです。

SNS界隈だけでなく、自分が損をしてでも相手の足を引っ張ってやりたい、という人の割合が多い、結果として下方硬直性が働いてしまい皆が不幸そうな顔をしている、というのが日本社会だと僕は考えています。

そんな状況で「心理的安全性」なんてものは夢物語です。

でも、自分のチーム内なら、それを実現することは可能です。

まずは自分からガードを下げていきましょう。