良い子の呪縛

「良い子」と「呪縛」と「囚われている」

現代の若手は「良い子の呪縛に囚われている」と以前のブログで書いた。

今回はこの議論を発展させてみようと思う。

そしてすぐさま訂正するようで申し訳ないのだけれど、「呪縛に囚われている」と思うのは僕(側)だけで、彼(彼女)らはその意識すらない、というところにこの話の根深さがあるような気がするのだ。

彼(彼女)らはそれを「良い子」とも「呪縛」とも「囚われている」とも思っていない。

でも僕はそう思う。

その乖離はどこから生じるのか?

そしてそれはネガティブなことなのか?

今日はそんな話だ。

毎年新入社員との年齢差は広がっていく

マネージャーという職業柄、仕事において若い社員と話す時間は比較的多い方だと自覚している。

毎年とまでは言えないけれど、何年かに1回は新入社員が入ってきて、その人達の社会人人生のスタートにおける最初の上司が僕、ということが繰り返される。

当然ながら、毎年僕も1歳歳を取るわけである。

でも一方入ってくる新入社員の年齢は変わらない。

結果として、新入社員と僕の年齢差は毎年1歳ずつ広がっていくわけだ。

そして実感としては、ある程度の区切りの年齢ごと(それを世代と呼ぶのだろう)に属性が変質していっているように思うのである。

おじさんになっていることも関係している。けれど…

ここには単純に自分が「おじさん」になっていることが大きく関係している。

自分の感覚が若者と乖離していく、というのは自然なことですらある。

でも今日言いたいのはそういうことではない。

テーマは「良い子」「呪縛」、そしてその「無自覚性」である。

「いつまでも仲良く暮らしました」

ちょっと極端な表現にはなるけれど、彼(彼女)らと接していると、ディストピアに迷い込んだような気分になることがある。

一見そのディストピアはユートピアのように見えるのだけれど、実際はディストピアでしかないようなディストピア。

「そしていつまでも仲良く暮らしました」的ディストピア。

僕はそこに違和感を覚えるのだ。

理解はある方(という奴ほど怪しいのかもしれないけれど)

僕はマネージャーとして何年も仕事をしているので、若手社員の振る舞いに付いて、多少の免疫はある方だと自負している。

彼(彼女)らに対して、どちらかというと共感できることが多いし、僕自身生まれるのが早すぎたと思うくらいである。

そんな僕ですら、うすら寒い気持ちを覚えることがある。

それがユートピア的ディストピア(今日のタイトルになぞらえるなら、良い子の呪縛)である。

目立つことに対する極端な拒否反応

彼(彼女)らは調和を重んじる

他人と競争したり、不和になることを極端に恐れる。

そして「目立つ」ことに極端な拒否反応を示す。

小さなコミュニティの中の、ミリ単位の違いを長所と呼んだり、短所と呼んだりする。

閉じられた世界。

その平穏な日常を乱す「外圧」を常に警戒している。

僕にはそんな風に見える。

安定した平穏

それは静的なSF小説みたいな世界である。

過去の偉大なSF作家たちが描いてきた典型的なディストピア的ユートピア。

そこに迷い込んだ愚かなマネージャー。

彼(彼女)はどこにも進まない。

安定した平穏。

コミュニケーションはその平穏を維持する為に行われる。

僕たちは無意識に操られている

彼(彼女)らは俳優であるが、それが演技であることには無自覚的である。

僕にはそれが「仮面」に見える。

でも「仮面」をつけた生活が長くなると、それも人生の大半をそうやって過ごすと、もうそれが「素顔」になるのだ。

そしてその無垢を装った笑顔に、我々大人たちは振り回されていく。

高度な立ち回りによって、結果的に仕事を行うのは我々であるという事態に気づけばなっている。

無自覚的ながら意図的な、アウトボクシング。

いや、正しくは、セコンドにいたはずの大人たちがリングで戦っており、入れ替わりで彼(彼女)らがセコンドにいるような状況。

それも我々の善意を催させるような無垢さのアピールから生じるのだ。

僕らは彼(彼女)らにいいように操られている。

でも、それが社会の太宗を占めた時、そこにあるのは間違いなくディストピアだ。

リアル・ワールド

彼(彼女)らは何も決定しない。

主導権を握ることをしない。

自己決定を何よりも恐れる。

「みんなで決めたこと」という体裁を過剰なくらい求める。

自己決定は何よりもストレスなのだろう。

目立つことは何よりも恐怖なのだろう。

閉じられた世界に留まるなら、それでいいのかもしれない。

でも僕らが生活するのはリアルな世界なのだ。

事前に読めてしまう共感の交換に何の意味がある?

人と人が交われば、不和が生じる

時に対立し、血が流れることだってある。

でもだからこそ、分かり合える人へのありがたみも生じるのだ。

グッドボタン「それな」もいらない。

共感なんて不要なのだ。

というか、事前に読めてしまう共感なんていらないのだ。

コミュニケーションは自己が崩壊していくことを楽しむものだろう?

僕は即興が好きだ。

インプロビゼーションに、そこにある違うBPMに、面白さを感じる。

自分が変容していくこと、構築された自己が崩壊していく過程、それこそが進化であるような気がしている。

固体でなく流動体

静的でなく動的

世界ははみ出すし、朝焼けも暗闇もある。

そうやって日々は少しずつ変わっていく。

良い子Bot

Botとの会話みたいな繰り返し。

予定調和のプログラミングコード。

僕たちの意識はいつかweb上にアップロードされるのだろう。

それまでには死んでいたいものだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

若手たちの「場の空気を乱さない能力」は恐ろしいくらい高い。

でも、何となくしっくりこない。

それが今回の話です。

そして、もう少し言うと、そのような「彼(彼女)らを生んでいる日本社会って結構ヤバいよね?」という話に繋がってきます。

リアルでは言いたいことを言えず、本音がアップロードされる世の中はやっぱり健全ではないような気がします。

というか、そのように思う僕はもう時代遅れなのでしょう。

アンドロイドは電気羊の夢を見るのでしょうか?

フィリップ・K・ディックみたいな現実に振り回されていきましょう。