アクセルとブレーキを同時に踏ませたら車は壊れるよね

UnsplashMichael Jinが撮影した写真

下らないプライドなんて捨ててしまえよ?

マネージャーとして仕事をする上で大事にしていることがある。

それは「相反する指示を同時にしない」ということである。

単純に卑怯だと思うからだ。

組織の中で仕事をしていると、そのような命令が上から降りてくることがよくある。

「攻めろ!」と言いながら、「守れ!」と言われるのは、日常茶飯事でもある。

それをそのまま降ろさない。

それが僕のマネージャーとしてのプライドである。

そんな下らないプライドなんていらないのかもしれない。

でも、プライドがなければ、仕事をしている意味なんてあるのだろうか?

今日はそんな話をしていく。

悪いのは末端の職員であるという思想

「日本組織論」みたいな大仰なことを考える時がある。

「我々(組織)はそのように命じてはないのに、末端が勝手にそのように動いたのだ(だから我々は悪くないし、悪いのは末端の職員である)」という思想。

それが日本組織にはずっとあるような気がしている。

これは事態が悪化した時に露見する。

それまではひたすらに「攻めろ!」と絶叫していたのに、敗色濃厚になると、そんなことは1ミリもなかったかのような振る舞いをする。

無表情。

記憶喪失的梯子外し。

そして気付いた時には、「守りも考えながら攻めるのが当たり前だよね!」なんてことを平然と言っていたりする。

トカゲのしっぽ切り

僕にはこの心性がまるでわからない。

失敗したなら失敗を認めればいい。

「攻める」という作戦が間違っていたなら、立案者も含めて断罪されるべきである。

でもそうはならない。

絞首刑になるのは、末端の職員だけである。

トカゲのしっぽ切り。

それはどのような組織でも行われるものなのかもしれない。

でもさ、と僕は思うのだ。

それだけはやるまい、と。

日本語という言語の特性?

日本語という言語は曖昧で、主語がないこともあって、言葉に複数の意味を込めることが比較的簡単な言語である。

それが「空気を読む」とか「行間を読む」とか、そういう作法に繋がる(たぶん順番は逆で、そのような振る舞いが先にあって、それに合うように言語が進化していったのだろう)。

ダブルミーニング的用法。

それによって僕たちは、発言した時の上司の表情や、トーンなどを加味して、言葉の真意を探る。

忖度、なんて言葉は正にその状況を表している。

主語を消すことで、動詞の行為者を第三者的にボカすことで、僕たちは「責任者不在」の言葉を命令として受け取る。

それを神のお告げのように受け取り、「勝手に解釈する」。

その結果、失敗した時に責任を取る者がいないし、「部下が勝手に行ったことである」という言い訳が成立するようになる。

「これをやめないか?」というのが僕からの提案である。

僕らだけでも主語を使って話をしないか?

組織というのは人間でできている。

僕たちミドルマネージャーもそこに属している。

だから、せめて僕らだけでもこのような言語運用をやめないか?

それで組織が変わるなんてことは思っていない。

でも、自分のチームだけは変えることができるのではないか?

主語を使って話をする。

それだけで言葉に責任を持たせることができる。

そんなことを僕は考えている。

指示者が指示をする権利を持っているのは、事後的に責任を負うという義務があるから

主語を曖昧にして、アクセルとブレーキを踏ませるような、アンビバレントな言葉を言うことは実は何も言っていないことと同義である。

アクセルとブレーキを同時に踏んだら、車は壊れる。

そんな当たり前のことを僕たちは日々やり続けている。

「指示をする」と「責任を負う」ことはセットである。

指示者が指示をする権利を持っているのは、事後的に責任を負う義務があるからである。

それを切り離して、指示だけしておいて、後は知らん顔というのは許されない。

そういう人には指示する権利はない。

企画者には責任がある

僕たちは簡単に「企画」をする

それによって組織を動かしたり、チームを動かしたりする。

でも、その「企画」が上手くいかなかった場合、その責任の一端は「企画者」にもあるのだ。

それを分からない人が多すぎる。

そのくらい「企画」には責任があるのだ。

ただ指示が悪いだけ

これはマネージャーも一緒である。

何らかの戦略や戦術を立案し、部下を動かすことには責任が伴うのだ。

その戦略や戦術が失敗した時に、責任を負うのはマネージャーなのだ。

「オレはそんな指示をしていない」であるとか、「そういう意味合いで言ったのではない」というのは、ナンセンスだ。

それは「指示が悪い」のである。

言葉に責任を負わせれば、戦略や戦術は嫌が応でも研ぎ澄まされたものになる

総花的な話をして、攻めも守りも何でもやろう、というのは指示でも何でもない。

そんな人は上に立ってはいけない。

僕たちは言葉に責任を負おう。

その覚悟があれば、戦略や戦術は研ぎ澄まされたものになる。

というか、ならざるを得ない。

ゲットアウト、プリーズ

僕たちは簡単に言葉を使い過ぎだ

それは責任を取らなくてもいい部下に責任を負わせればいい、とどこかで考えているからだ。

それはもう終わりにしよう。

アクセルとブレーキを同時に踏ませるような指示は、指示に値しない。

それで車が壊れるのは当たり前で、その責任を負うのはマネージャーである。

その覚悟がない者はマネージャーという仕事には向いていない。

今すぐ立ち去るべきだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

今日の話は僕たちの世代からなら変えられることなのではないか、と僕は結構本気で思っています。

大人たちの「わかった風な顔」「知った風な顔」が僕は嫌いで、何も戦わず、何も抗わないくせに、訳知り顔だけはいっぱしにやるその厚顔無恥さが僕には理解できません。

もっと言うと、この30年間日本が失敗し続けているのは、そのような言語運用に基づく日本型組織運営がまるで上手くいっていないからだと思うのですが、それは思いっきり棚に上げているのが本当によくわかりません。

失敗者達の、失敗した組織運営をこれからも続ける必要があるのでしょうか?

僕はまともな仕事がしたいだけです。

適切に抗っていきましょう。