見えている世界を変える
部下育成は無意味だ。それでも…
人間は見たいものだけを見ようとする生き物だ。
というか、見えていないものは見えない動物である。
だから、いくら熱心に話をしたとしても、そもそも相手に受容器が備わっていなければ、それを知覚することはできないのである。
部下育成をしていると、いつもそんなことを思う。
だから部下育成は無意味である、そう思いたくなる時もある。
その人が成長するかどうかは生まれ持った才能次第であり、センスがない人が成長することはない、これはある種真実であるような気もしている。
それでも、というのが今日の話である。
その人が見えている世界を少しでも変えることができたら、成長する可能性があるのではないか。
それを諦めずに繰り返すことが、マネージャーの仕事なのではないか。
今日はそんなことを書いていく。
営業はセンスだ
営業はセンスである。
これは仕事をしているといつも思う。
商談というのは時々刻々と状況が変化していくもので、その場に相応しい振る舞い応をし続けることができる人をセンスがあると僕は呼ぶ。
これは必ずしも受動的であることを意味しない。
その場に相応しい振る舞いというのは、相手へのレスポンスを正確に行うことだけを言うのではない。
協奏して、その場を暖められるかどうか。
そのイメージを共有できるかどうか。
それが営業のセンスである、僕はそう思っている。
「場の構築」が営業の神髄
多くの人は会話などのラリーを正確に行える人をセンスがあると思っているようだけれど、それは間違いだ。
ラリーの正確性は営業成績には直結しない。
場の構築こそが営業の神髄である。
ただ、それを理解し、実践できる人は本当に一握りである。
J1とJ2
僕は部下のメンバー構成をサッカー選手に例えることがある。
僕が欲しいのは、J1でレギュラーとして戦える選手だ。
もちろん、日本代表クラスの選手がいたらいいなとは思うけれど、流石にそれは高望みが過ぎる。
J1レギュラークラスがいれば、それだけで最高だ。
でも、現実においては、J2でもベンチ入りができない選手ばかりである。
彼(彼女)らは残念ながら、センスがない。
努力もしない。
でも、自分はJリーガーだと思っている。
プライドもそれなりにある。
ただ、実力が如何せん伴っていないのだ。
優勝? 冗談だろ?
そんな状況の中でも、オーナーはJ1で優勝してくれ、と簡単に言ってくる。
最低でも、優勝争いには加わってくれ、と。
でも、戦力補強はなし。
クラブの設備もそのまま。
「さて、どうするか?」というのが多くのマネージャーの現状であると思う。
中田のパス
僕は以前この例えをした時に、ある部下から「課長は海外リーグ育ちなんで僕たちとは違うんですよ」と言われたことがある。
曰く、僕の言っていることはレベルが高すぎてよくわからない、そういうことらしいのだ。
確かに往年の中田英寿のパスに日本代表の多くの選手が反応できなかったように、見えている世界が違うとイメージを共有することができない。
でも、かといって、J2補欠レベルが捕球できるようなパスばかりしていては試合に勝つことは難しい。
「さて、どうするか?」という問いにまた戻ってくる。
海外リーグレベルのパスを出す
僕が現時点で思うのは、見えている世界を変えるということだ。
サッカーの例えで言うなら、海外リーグレベルのパスを時には出すべきである、ということになる。
もちろん、普段からずっとそのレベルのパスを出し続けているのでは、誰も付いて来なくなる。
マネージャーが孤立するだけである。
でも、だからと言って、彼(彼女)らに合わせたパスばかりでもいけない。
違う世界を提示する
もちろん、工夫はする。
回転のかけ方や、ボールスピード、受け手の利き足の状況などを勘案して、なるべくスムーズにゲームが流れるようなパスをする。
そこにはそれなりの技術が要求される。
それによって、多少の試合で勝つことができるようにはなるだろう。
でも、そればかりではチームは成長しない。
時に強いボールを出すことも必要なのだ。
マネージャーが描いている世界が、もっと違うものであることを具体的に示す必要がある。
気付く人だけ気付けばいい
当然ながら、誰もそのボールに追いつけない。
タッチラインを割り、相手のゴールキックになってしまう。
でも、それでいいのだと思う。
もちろん、試合後に振り返りは行う。
あのパスがどのような意図を持ったものなのか、どのような局面だったからあのパスを選択したのか、それを共有はする。
簡単に理解はできないだろう。
ただ、その繰り返しがなければ、見えている世界は変わらない。
そして厳しいようだけれど、気付いたものだけが見る世界を変えればいいのだ。
「快」の感情
仕事に限らず、フィードバック・ループを回すことによって、知覚できる世界が変わり、得られる情報が変わり、新たな視点を持つことができるようになる。
それは「快」の感情であると思う。
もちろん仕事には様々な付帯物がある。
苦役である、という認識を拭い去ることはできない。
でも、と僕は思うのだ。
新しいことを知り、世界の見え方が変わる、というのは、単純にその事実だけで快いものである、と。
それが分かる人の為に、それに気づくことができる人の為に、今日も僕は強いパスを出すつもりである。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
仕事の意味を考えると鬱になる。
でも、「快」の感情があれば、そこから逃れることができる。
こんなことを最近は考えています。
サッカーで理想通りのスルーパスが通った時の快感に勝るものはこの世にはありません。
そしてそれは意味を考えてやったものじゃない。
出し手と受け手の世界観の共有。
言葉じゃなくて、イメージの協奏。
インプロビゼーション。
僕はそんなことを考えながら、強めのパスを出し続けています。
プレーするその喜び自体を噛みしめていきましょう。