ユートピアンとリアリスト
二者択一の質問に気をつけろ!
あなたは理想主義者(ユートピアン)ですか、それとも現実主義者(リアリスト)ですか?
そう問われたら、どう答えるだろうか?
僕はその間である。
そう答えるのは反則だろうか?
怒らないで欲しい。
僕は常々二者択一の質問には気をつけるべきであると思っているので、ただそれをやってみただけなのだ。
世の中を2つに割って、単純化しようとする輩にロクな奴はいない。
世界は複雑なのだ。
それを理解している人がマネージャーにはきっと向いている。
今日はそんなことを話していく。
マネジメントのベースは現実主義であるべきだ
マネジメントという仕事をしていると、理想と現実が入り混じって、どちらを優先させるべきなのか迷う瞬間が度々訪れる。
このブログの初期にも書いたこと(「戦術にチームを合わせるか? チームに戦術を合わせるか?」)であるが、その時には僕はチームに戦術を合わせるというスタンスを取っていたと思う。
要は現実主義的路線を主張していた訳だ。
それは今も変わらない。
マネジメントのベースは現実主義であるべきだ。
僕はそう思っている。
グーグルの社員なら…
これは自戒を込めたものでもある。
このブログを読んでくださっている方ならわかると思うけれど、僕はどちらかという理想主義的な思想を持っている。
青臭い中二病にかかったままだ。
そんな夢遊病みたいな状態でマネジメントをしている。
でも、それだけでは成果は上がらない。
率いているチームのレベルが高ければ、そのやり方でも通用するかもしれないけれど、残念ながら僕のいるチームではそれはできない。
それをマネージャーになってすぐに僕は気づいた。
そして当時世の中にはそのような現実路線のマネジメントを扱った書籍があまりなかったような気がするのだ。
僕はそれを心の底から欲していたのに、あるのは理想主義的なものばかり。
グーグルの社員ならきっといいんだろうな。
僕は何度もそう思ったものである。
理想主義路線は不可能
理想と現実のギャップ。
その度に、理想主義の路線なんて不可能なのだと悟ったものである。
そして僕は現実主義的なマネジメントをずっとやっている。
それで成果を出し続けている。
だからベースは現実主義的であるべきだ。
究極のリアリストですら…
ただ、というのがここからの話となる。
それだけではやっぱりダメなのである。
リアリストの権化みたいなマキャベリですら、最後にはイタリアの解放というスローガンを掲げているくらい、人間にはたぶん理想が必要なのだと僕は思う。
チャンドラー的に言うなら「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」ということになるのかもしれない。
ニヒリスト的理想主義
僕が思うのは「ニヒリスト的理想主義」みたいなものである。
理想は叶わない。
もしかしたら叶うかもしれない、という可能性すらない。
でも、だからと言って理想を掲げる意味がない訳じゃない。
そこに向かっていくこと自体に価値があるのだ、きっと。
そう自己暗示をかけるしかないのだ。
ある種祈りのようなもの。
これが僕の考える「志向性」というものである。
「現実主義の理想主義ソース添え」
それが僕のマネジメントのレシピである。
我に返るな!
現実主義だけでは人間は腐っていく。
なぜなら、現代の仕事というのはクソ仕事で溢れているからだ。
我に返っちゃいけない。
それが僕の最近のスローガンである。
僕らがやっている仕事など不必要だという命題
意味を考え出したら、仕事を続けることができなくなってしまう。
リアリストの限界はここにある。
究極の現実主義においては、「僕らがやっている仕事など不必要である」という命題から逃れることはできない。
「この仕事に何の意味があるのか?」という問いに答えられるようなものではないのだ。
そして僕たちはいつまでも幸せに暮らしました
もちろんそうじゃない人もいると思う。
エッセンシャル・ワーカー。
本当に頭が下がる。
でも僕たちの大半は存在自体が「不要不急」なのだ。
そんな僕たちには何らかの大義が必要である。
大義なんて言うと大げさかもしれない。
「僕たちを騙す物語」が必要なのだ。
自分達の仕事には意味があると思わせてくれるようなステキなお話。
「そして僕たちはいつまでも幸せに暮らしました」
そういう嘘が必要なのだ。
ライフ・ゴーズ・オン
エンドロールの向こう側。
そこでだって生活は続いていく。
お姫様は年老いて、ガラスの靴のフィット感だけで結婚を選択した自分を呪っている(もしかしたら王子様も)かもしれない。
でも、人生は続いていくのだ。
僕たちが生きるという選択をする限り。
リアリストの行き着く先
そんな時、リアリストが選択するのは、もしかしたら自死だ。
いや、僕たちが生活する日本においてはありふれた選択肢だ。
現実を見るということは、もしかしたらそういうことなのかもしれない。
でも、そんなのってやっぱりおかしいよな。
一生懸命働いた挙句、どこかで我に返って、自死を選ぶ。
そんな社会じゃいけないよな。
僕はそう思って、このブログを書いている。
スーパードライ・エクストラコールド
スーパードライ・エクストラコールドな僕が、夢想めいたことを書き続けているのは、どこかに希望があって欲しいと思っているからだ。
希望なんてない。
そんなことはわかっている。
でも、寝言みたいなことを言っている間は、そこから逃れることができる。
それで十分じゃないか?
僕は青臭い理想を抱えて、現実的な仕事を今日もする。
絶望?
上等じゃないか。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
僕はカート・ヴォネガットという小説家がとても好きです。
それは諦念の中に希望が含まれているからです。
スローターハウス5という小説の中で、主人公は「So it goes.(そういうものだ)」という言葉を繰り返します。
僕は僕程度の苦難(それはきっと苦難と呼ぶに値しない程度の軽微なものなのでしょう)に遭遇する度に、この言葉を思い返すようにしています。
諦めだけでは人生はつまらない。
でも希望を持つには現実は厳しすぎる。
1周回った絶望の先に希望はあります。
いや、希望はないのですが、あって欲しいと祈ることはできます。
暗い夜を何とか生き延びていきましょう。