戦術にチームを合わせるか? チームに戦術を合わせるか?

理想的なチームを作りたかった

マネージャーになりたての頃は、自分の理想とするチームがあった。

マネージャーが何も言わずとも、メンバーが自発的に動いて、意見交換も活発に行われて、自由な雰囲気で、でも結果も出していて…。

部下は色んなことを考えていて、自分なりのやり方を考案して、試行錯誤しながらも前向きに仕事を進めていって…。

仕事に対して真摯に向き合っていて、どちらかというとハードワークで、充実感もあって、大変だけど部活みたいな達成感もあって…。

みたいな感じだ。

こういうチームを作るために、マネジメントも進めていくのが良いと考えていた。

戦術が主で、チームが従だ。

優先されるべきは理想の方であって、メンバーはなるべくそれに近い人が望ましいという感じだ。

チームの為に個があって、個の為にチームがあるんじゃない、そう思っていた。

同質的なチームが強い訳ではない

今はちょっと違う。

チームが主で、戦術が従。

個の為にチームがあって、チームの為に個があるんじゃない。

メンバーの特徴が活かせるようにチームを構築する。

これはある種の妥協なのかもしれない。

でも5年間やってみての現実的な解がこれだ。

当たり前だけれど、仕事に対する価値観は人によって異なる。

それぞれの過去のキャリアも異なるし、未来の展望も違う。

さらに同じ人であってもライフステージの変化によってどんどん変わっていく。

昭和の時代であれば、「仕事が一番」という価値観で上手くいったのだと思う。

同じような背景の社員ばかりで、軍隊のように会社に奉仕していれば良かったのだと思う。

「右向け」という時に右を向かない社員は無能だと決めつけておけば良かった。

上司は偉くて、部下はその素晴らしい指示に従う。

それに異議を唱えることはご法度だった。

同質性こそが組織に求められるものだった。

従順であることが優秀である為には不可欠だった。

異質性を持ち寄ることでチームの形が決まり、かつそれは変化していく

今は違う。

僕自身は昭和世代の教育を受けてきたので、会社に忠誠を誓って、ハードワークも厭わないで、転勤も受け入れて、上司の命令は絶対で、みたいな価値観に違和感はない。

ちょっと違うなあ、と思いながらも組織というのはそういうものだし、仕方ないよね、みたいな感じだ。

でも、何というか時代が変わってきて、皆が地中に埋めていて見て見ぬふりをしていたものがどんどんとつまびらかになってきている。

上司は必ずしも優秀じゃないし、会社の言うことが社会と合っている訳でもないし、仕事がすべてじゃないし、会社だっていつ倒産するかわからないし、ハードワークしたからと言って素晴らしいアイディアが生まれる訳でもないし。

色々なものが不確かで曖昧で多様になっている。

そこにいささかの寂しさを感じながらも、でも僕はそっちの方が健全だと考えている。

別に自由が良いとか、アメリカ西海岸的文化サイコー!とかそういうことじゃなくて、単純にやることやりゃいいんじゃないか、という感じだ。

もちろん規律とか、節度とか、そういったものは必要だと思うけれど、それは組織が強制するものではなくて、そのメンバー内で良しとするかダメとするか決めればよいくらいに捉えている。

職場はあくまでも職場に過ぎなくて、別にそこにいる人達と仲良しである必要はないし、家族ぐるみで付き合う必要もない。

必要以上の懇親も馴れ合いもいらない。

適度な距離感。

仲良くなる人がいてもいいけど、強要すべきじゃない。

だから、チームの形も必然的に可変的になる。

子供が生まれれば働き方も変わるし、親が介護になれば価値観も変わるし、それが当然だと思うし、むしろその方が仕事に幅が出てくる。

好きなようにすればいい。

スペシャリスト達が自分の能力を持ち寄って、終わったら解散、みたいなイメージ。

飲みに行きたければ、各々好きにやればいい、そんな感じだ。

チームの方針はチームのメンバーが作ればいい

かつての僕はチームの方針にそぐわない人に勝手に腹を立てていた

ちゃんと働けよ、と思っていた。

でも、当たり前だけど、その人にはその人の価値観や生活があって、仕事はその一部でしかないのだ。

このことに気付くのにだいぶ遠回りした。

これは僕のキャラクターもあると思うのだけれど、僕は普通に仕事をしているだけで、ストイックだと言われる。

いちメンバーならそれでもいいけれど、マネージャーになると、メンバーにはそれがプレッシャーになるようだ。あんな風に働かなければならない、という風に。

僕は全然そう思っていないのだけれど、部下は行動の方を重んじるので、自然とそういう雰囲気が醸成されてしまう。

だから、僕は必要以上に放任的なスタイルをとっている。

自分ではもう少しきめ細かくした方が良いとは思っているけれど、それを出すと、過剰になってしまうようなので、殆ど何もしない。

要所だけ締める、そんな感じだ。

僕は部下がどんな人でも良いし、どんなやり方でも良い。

好きなようにやれば良い。

一つ間違えればバラバラになってしまいそうだけれど、部下に任せてみると、思ったよりもちゃんと回る。

不思議だけれど、これは本当にそうだ。

マネジメントをしないことが究極のマネジメントだ

マネージャーとしては無責任のようだけれど、「よきにはからえスタイル」を僕は取っている。

必然的にメンバーの個性を活かさざるを得なくなる。

「仕事人」たちを使う為にはそこに納得性が必要になるからだ。

だから情報も開示するし、思っていることは言うし、意思決定の際にはプロセスも話す。

僕個人としては理想の戦術があるけれど、みんなが力を出せるなら、それと違ったって良い。

それで結果が出なければ、方針を変える。その理由も言う。

雑多でバラバラだけど、仕事はきちんとする。

究極的には僕はそれでいいと思っている。

多様性だとか、ダイバーシティだとか、言葉では色々言えるけれど、それをマネジメントするのは至難の業だ。

というか、もともとマネジメントという言葉と親和性がないのだと思う。

みんなが同じ方向を向いていた時代にはマネジメントはもっとマネジメント的だったというべきか。

だからある種僕はマネジメントを放棄しているとも言える。

色々とマネジメントに関することを書いてきて矛盾をしているようだけれど、究極のマネジメントはマネジメントしないことだと言ったら言い過ぎだろうか。

戦術などいらない、と言ったら自己撞着だろうか。

もう少し丁寧に言うと、マネジメントは必要だし、戦術も必要だけど、金科玉条のように崇め奉るものではない、可変的なもの、チームの性質によって変化していくもの、という感じだ。

みんなの今日のコンディションによって試合の戦い方は変わる。

それが優秀な監督だろう?

僕は最近そんなことを考えている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


編集後記

「マネージャーなんていらない」ということを事あるごとに僕は言っています。

正直なところ、最近は何もしていないので、僕がいようがいまいがチームにとっては何の影響もない、と本当に思っています。

手抜き、と言われるかもしれないですが、チームの形を考えていった時に辿り着いたのが今の形です。

時々存在感を出したくもなりますが、マネージャーがしゃしゃり出ると良いことはないということもわかっているので、大抵は暇そうにしています。

それでも結果が出ているので上司から何も言われることはありません。

虚しさを感じることは事実ですが、精神的にはだいぶ楽になったので、1つのスタイルとして試してみてもいいのではないでしょうか。