手に職をつけたいのは企業で働く将来性に不安があるから

UnsplashAndrea Donatoが撮影した写真

「手に職をつける」とは?

若手と話をしていると、「手に職をつけたい」という話をよく聞く。

そして、僕らが務める企業では「手に職はつかない」とも。

そこで僕はこう考えることになる。

「手に職って具体的にはどういうことを指すんだ?」

「そしてそれは企業で働くことのカウンター(反対攻撃)となるのか?」

今日はそんなことを書いていく。

何者かにならなければならないという強迫観念

スペシャリティ信仰。

「手に職をつけたい」という言動の裏には、専門性志向があるような気がしている。

上手く言えないのだけれど、若手たちは「何者にかならなければならない」と追い立てられているような感じがするのだ。

それは若者特有の、ある種普遍的な考え方であるのかもしれない。

でも、この数年、特に増えてきたように感じるのである。

スペシャリストとゼネラリスト

VUCAの時代には、どのような環境になったとしても生き抜けるだけのスキルが必要だ、と言われる(というか、その手の広告会社や転職斡旋会社がそう煽っているだけなのかもしれない)。

そして、若手たちは学生時代から、自分の存在証明をSNS上で繰り返し行ってもいる。

この2つが合わさった時、そこにはスペシャリティ信仰が生まれる。

同時に、「反ゼネラリスト信仰」も生じる。

自分は「その他大勢」にはなりたくない。

何の専門性も持たない「あのおじさんたち」のようになりたくない。

それは実生活でも、SNS上でも、埋もれてしまうような感覚を生むから。

それが彼(彼女)らの思うところだろう。

人が集まれば、質は低下す。そして多くの人は「その他大勢」になる。

でも、スペシャリティなんてそう簡単に身につくのだろうか?

ITエンジニア、Webマーケター、Webデザイナー、etc.

Web業界は引く手あまただと言われる。

実際にそうなのかもしれない。

でも、僕には何となく釈然としない部分があるのだ。

というのは、たくさんの人たちがそこに押し掛けるということは、全体としては質の低下を生むのではないか、と思うからである。

もう少し正確に言うなら、その内部で、一部のスペシャリストと、その他大勢に分かれるし、多くの人は大した専門性もないその他大勢に分類されるのではないか、と思うのである。

もちろん需要はたくさんあるし、これからも増えていくのだろう。

「ただ、それってレッドオーシャンなのでは?」とも思うのだ。

安易すぎない?

確かに彼(彼女)らの言い分もわからないでもない。

(僕が務めているような)企業でずっと働くということはリスクであるのも事実だろう(専門性も身につかないし)。

でもだからと言って、そのような多くの人たちが押し掛ける業界に行くのは安易すぎやしないか?

そこでスペシャリストとして認められるのは、並大抵の話ではないのでは?

そんなことを思うのである。

スペシャリストはスペシャルであり続けなければならない

スポーツの世界と同じで、競技人口が多ければ多いほど、競争相手のレベルは上がっていく。

誰も聞いたことのないような競技がオリンピック種目にあったりするけれど、たぶんサッカーと比べたら、そこまでずば抜けた身体能力はいらないのではないか、と僕は思う(ここには多分に偏見が含まれている)。

何というか、「専門性」という意識が低すぎやしないか、と思うのである。

「一芸に秀でる」ことに僕たちは憧れる。

それは僕たちが「何者でもないから」である。

「何者かになりたい」という意識は、自分が何者でもないからこそ生じる。

現状はダメ、だから、という論理構文。

わからなくはない。

というか、少なからず共感もする。

そして、企業に勤め続けることが必ずしも良いことだとは僕も思っていない。

でもさ、というのが今日の話である。

「スペシャリストはスペシャルで居続けなければならないのでは?」

「そしてそれってかなり大変なことなのでは?」

僕はそう思うのである。

スキルって重要なのか?

もちろん、たとえそうであっても、現状のようなぬるま湯から脱して、一念発起、新しいステージで自分を厳しく鍛え直したい、その気持ちはわかる。

そして僕のような考え方の方が絶滅危惧種的なのかもしれない、とも思う。

でも、数々の部下を見てきた僕からすると、活躍するかどうかというのは、その種の分かり易い「スキル」の有無ではないのではないか、と思うのである。

基礎体力や基礎筋力みたいなもの。

どんな競技でも対応できる応用力みたいなもの。

それが歳を重ねれば重ねるほど必要になるように感じるのだ。

スペシャリストになるには覚悟がなさ過ぎるのでは?

もちろん、現状の企業の方式(人事や採用、育成など)が良いとは僕も思っていない。

ゼネラリストが全然ゼネラルじゃないという現状にも不満があるし、「何もしていない人」が一定数(以上)存在している状況に忸怩たる思いもある。

そして、そこから何とか抜け出したい、というのも理解できる。

でも、一足飛びで移れるほど、簡単なことではないのでは?

おじさんみたいなことを言うと、「半人前はどこで何をやっても半人前なのでは?」と思うのである。

「スペシャリストになりたい」というのには覚悟がなさ過ぎる、そんな風に感じるのだ。

僕にも答えはないけれど…

企業の在り方。

そこでの働き方。

確かに課題はたくさんある。

そしてその解を僕は持っていない。

でもさ、というのが今日の話である。

よくわからない話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

ホワイトカラーとブルーカラー。

乱暴に分けると、手に職をつけるというのはブルーカラー的な仕事への憧れなのかなと思うことがあります。

そして、現代のホワイトカラーの仕事はブルシットジョブ的であって、「意味のある仕事をしている」という実感があまりにも乏しい。

だから、「手に職をつけたい」

そうすれば、「企業に左右されず、自由に働ける環境が手に入るから」

その気持ちは僕も同じです。

でもさ、とその刹那、僕は思い直し、何となく釈然としない気持ちになります。

多くの自称スペシャリスト達と仕事をしてきた僕は、そのスペシャリスト達よりも自分がその分野で明らかにスペシャルであると何度も感じてきました(自惚れも込みで)。

でも、僕は何も持たないゼネラリストであると自認しています。

レオナルド・ダ・ヴィンチ専門バカ。

僕は前者のような知性を渇望しています。

時代遅れだとは承知の上で、これからもゼネラルに生き残っていきたいと思っています。

懲りずに、呆れずに、引き続き読んで頂けたら幸いです。