突き抜けた綺麗事を
0%の綺麗事
会社では「思ってもいない綺麗事」が流通している。
僕はそう思っている。
本人は微塵も思っていないのに、そう言うことが適切だから、その場面に合っているから言う、みたいな言葉が会議室でも廊下でも飛び交っている。
いつもそれに辟易する。
いや、理解はしているのだ。
そういう言葉が時に必要だということは。
でも、あまりにも多過ぎないか?
僕はマネジメントには言葉に重力を付けることが重要だと常々言ってきている。
そして言葉に重力を付ける為には、そこに話者の想いがなければならない。
もちろん100%でなくてもいい。
2%でもそこには話し手の想いが必要なのだ。
そこから論を進めて、今日はその想いが100%を超えるような話、突き抜けた綺麗事について今日は書いていこうと思う。
一言を求められる場面で何を言うか?
マネージャーになって変わることの1つに、発言の機会が増える(与えられる)ということがある。
朝礼、会議、飲み会、まあ何でもいいけれど、「課長、一言」という場面が割とある。
そこで何を言うか?
あまりにも回数が多く、そんなにこちらにも言いたいことのストックがある訳でもないので、大体の場面では、「それなりのこと」を言って終えることが多い。
冒頭の例で言うなら、そこに自分なりの想いを数%混ぜて話す、そんな感じである。
でも、時に、感情が乗って、100%以上のことを言ってしまうことがある。
それが時には重要なのではないか、というのが今日の話である。
用意しているのではなく、ふと漏れてしまう
100%以上のこと。
それは僕なりの言葉に翻訳するなら、突き抜けた綺麗事である。
崇高な目標、大義みたいなもの。
それを僕はポロリと言うことがある。
そのタイミングは自分ですら予期していないものですらある。
狙って「言おう!」というものではないのだ。
ただ、何となく、そういう気分になったらから、そのくらいのテンションである。
突き抜けた綺麗事は深く刺さる
僕がこんな性格なのにマネージャーという仕事を続けられているのは、この時々の突き抜けた綺麗事のおかげなのではないか、と思う時がある。
自分で言うのもなんであるが、そういう時に僕が言った言葉というのは、ある特定の人に刺さるようなのだ。
それも割と深くまで。
TEDのパフォーマンスからだいぶ遠く
純度100%、もしくはそれに近い言葉、というのは、人の心まで届く時がある。
もちろん、それはある種照れ臭い種類のものではある。
何というか、中学2年生みたいな青臭いものなので、気恥ずかしさがそこには多分に含まれている。
だから、いつもはそんなことは言わない。
でも、何かのきっかけ、その時の雰囲気みたいなものに流されて、僕はそれを言葉として空気中に載せる。
しんとした空間、誰もが僕を見ているような、でもその言葉が本当に届いているのか不安になるような、あの感じ。
別に熱を込める訳ではない。
TEDみたいなパフォーマンスがある訳ではない。
ただ、そっとその空間に置くような感じ。
自分が考えていたことを事後的に理解する
用意された言葉ではなくて、そこで普段から考えていることをただ思いつくままに並べていく。
その並べられた言葉によって自分の考えが整理され、また次の言葉が出てくる。
そして自分が本当に考えていたことを事後的にエッセンスとして理解する、というか。
言いたいから言う。そうだろう?
ここには「誰かに届けたい」という想いは不要であるような気がしている。
ただ、言いたいから言うのだ。
それがどこに届くのか、というのは関係ない。
別に届かなくてもいい。
言わずにはいられないから言う。
そんな感じなのだ。
綺麗事の段階
綺麗事には段階がある。
多くのマネージャー達の言葉は、それが綺麗事であることを本人が自覚せずに言えてしまう種類のものであるように僕には思える。
最初は綺麗事であることを誰もが自覚している。
でも、だんだんと経験を積むと、それをさも本心から言っているように演技ができるようになる。
そして、それが演技であることを自分でも忘れてしまう。
多くのマネージャーはこの段階だ。
僕は違う。
僕はそれはそれとして、演技としてやる。
でも、それ以上の綺麗事を本心から言う時もある。
それが今回のテーマだ。
上手な演技はファンを遠ざける
ビジョン、パーパス、その類の言葉。
それは否定しない。
でも、それがマネージャー自身の腹に落ちていないなら、その言葉を取り扱う時には注意が必要だ。
別に演技をするなとは言っていない。
ただ、あまりにも上手に演技ができるようになっているなら、気を付けた方がいい。
そして、そればかりやっていると、あなたの本当のファンはいなくなってしまうことも言い添えておく。
痛いファンを
マネジメントにおいて大事なのは、「1人の味方を見つけること」だ。
それも浅いファンじゃなくて、深いファン、次のあなたの言葉を心待ちにしているような「痛いファン」を作ることがとても重要なのである。
もちろん多いに越したことはないけれど、多くの人に刺さる言葉というのは、ある種薄味になってしまうのも事実で、それなら濃い、特定の人にしか刺さらない言葉を言った方がいいと僕は考えている。
誰にも嫌われない言葉は、誰にも好かれない。
突き抜けた綺麗事には、パワーがある。
そのパワーは、別に部下の為のものではない。
自分にも活力を与えてくれるのだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
営業マンだった時もそうですが、綺麗事というのは突き抜けると物凄い効果を生むものです。
でも、多くの人は、綺麗事と聞くと鼻で笑ってしまうか、昔は自分もそうだったと訳知り顔をするかのどちらかです。
そのような人たちを横目に、というか放っておいて、自らが信じる突き抜けた綺麗事を言い続けていきましょう。