ガキは置いていこう

UnsplashAustin Pachecoが撮影した写真

自己利益を最大化するように行動することは理に適っているが…

僕が社会に出た頃と現在とでは、「大人」が大きく減っているような気がしている。

これは裏を返せば、「子供(ガキ)」が増えた、ということになる。

ガキというのは、すぐ感情的になるというか、話が通じないというか、とにかくエゴ(自我)が前面に出ている人をここでは指すことにする。

もちろん、現代というのは「自己利益を最大化するように行動する」ことが是とされている世の中であるとは思う。

それはある種人間の本性に適っているし、自己責任論へのカウンターとして適切な反応であるのかもしれない。

でも、あまりにもさ、と思うのだ。

駄々をこね、不平不満を並べていれば誰かが解決してくれる。

そのくせ努力をすることはなく、ただそこで泣き喚いているだけ。

そういう輩を相手にするのはもうやめないか?

今日はそんな愚痴めいた話である。

大人を前提とした仕組み

「ジョブディスクリプションは大人を前提とした仕組みである」

そんなことを思う時がある。

欧米のように、ある程度個が個として確立している状態であれば、このような仕組みは上手くいくのかもしれない。

でも、日本ではどうか?

それも現代日本ではどうか?

僕にはやや疑問である。

というのも、ジョブディスクリプションは「それは私の仕事ではない」というセリフに正当性を付与するものであるからだ。

「それは私の仕事ではない」と「私の仕事は全うする」

これ自体は良いも悪いもない。

そういう制度に基づいた発言であるのだから、そういうものとして受け止めるしかない(むしろそこに日本的ウェットを持ち込む方が良くないとすら思える)。

でも同時に、これは「私の仕事は全うする」ということが裏側で担保されていなければワークしない、とも言える。

自分の仕事は自分の仕事として責任を持って取り組むことが前提。

だからこそそれ以外のものは、私の仕事ではないと言い切ることができる。

さて。

現代日本において、それも「子供」が溢れる日本において、このような仕組みが上手くいくだろうか?

僕はそう思わない。

なぜなら、都合よくこの仕組みを利用しようとするのが「子供」たちであるからだ。

仕事が完結できないのはその人の問題である

仮に自分の仕事を自分で完結できないとする。

それは(厳しい言い方にはなるが、この制度上では)基本的にはその人の問題である。

もちろん、環境要因など、様々な状況が絡み合って、仕事が完結できない、という可能性は理解できる。

でも、それを加味しても、その仕事が完結できないという事実は残るし、その責任はその人にあることは免れない、と僕は思うのだ。

良心の呵責くらいは持って欲しい

これは「全責任をその人が負いなさい」ということを言いたい訳ではない。

少なくとも自責の念というか、申し訳なさというか、不全感というか、それを感じて欲しいだけだ。

しかしながらそれもなく、もちろん自ら努力することもしないで、誰かのせいにしたり、不満を撒き散らしたりする人が巷には溢れている。

恥を知れよ。

強い言葉にはなるが、僕はそう思ってしまうのである。

権利の主張と義務の履行

もちろん、仕事とは個人で行うものではない。

そしてマネージャーという職務は、ジョブディスクリプションに基づいて規定しようとしても、厳密に規定できるものではない。

それは理解している。

ただ、優先順位はあるよね、とは思うのだ。

そして、権利を主張するのであれば、応分の義務は負って欲しい、とも思うのである。

もちろん、これも「100%お前が負えよ!」とまでは流石の僕でも思わない。

10%でもいい。

自分の能力が足りなくて、その仕事が完結できなかった、申し訳ない、という気持ちくらいは持って欲しい。

そうであれば、こちらも幾らでも力を貸そうと思う。

でも、それすらないなら、というか、むしろそれを他責にしてしまうのであれば、それは違うのではないか、とは言いたくはなるのだ。

詐欺師は市場から退出させよう

リスクとリターンは等価。

自己利益を最大化したいのであれば、それに伴うリスクは許容しなければならない。

こんなものは市場原理として当たり前の話だ。

それを勘違いしている人が多すぎる。

そしてそのような人はマーケットに参加してはいけないのだ。

リスクを限定して、リターンを最大化できる商品を売ろうとしている人がいたら、その人は詐欺師である可能性が高い。

もちろん、そのような商品があればいいな、とは思う。

でも、世の中というのはトレードオフなのだ。

ノーペイン・ノーゲイン。

それは仕事においても同様である。

「誰の仕事かわかっている仕事」のツケを払うのが大人なのか?

ジョブディスクリプションによって、仕事の裁量は決まり、従来の日本的慣習のように、「誰の仕事かよくわからない仕事」をいきなり割り当てられるリスクは減少するのかもしれない。

それによって、ある種自由というのは拡大するのかもしれない。

ただ、そうであるのであれば、責任も同時に増大するべきなのだ。

自由だけを得、責任を負わない、ということは起こり得ない。

それが世の常である。

というか、もしそうであるとするなら、その責任は他の誰かが負っていることになる訳である。

「子供」は責任を負わず、「大人」は「誰の仕事かわかっている仕事」のツケを払う社会。

とても素晴らしい。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

日本の1人当たりGDPはG7の中で最下位。

OECD加盟38か国中21位。

円安の影響を加味しても、「どうなん?」と僕は思ってしまいます。

そして、職場の現状を思い返して、「そりゃそうだよな」とも。

「GDPが高いことが幸福に直結する訳ではない」

それはその通りでしょう。

仕事人間(モーレツ社員)はどう考えても幸せそうではありません。

でも、僕が思うのは、もっと効率的に生産性を上げる方法はある、ということです。

労働時間を延ばす方向にしか、生産性を上げる術がないと考える無能な人たち。

そんなマネージャーばかり。

「仕事は仕事でしかない」

そりゃそうなのかもしれません。

「でも、これでいいの?」と僕は思ってしまいます。

ガキと共に沈んでいく国。

その中で僕はもう少し藻掻いてみようと思っています。

仲間に加わって頂けたら幸いです。