ワークライフバランスという言葉が嫌いだ
分断が我々を貧しくしているのでは?
仕事と生活のバランスが取れた状態。
それがワークライフバランスという言葉の意味だ。
でも、ここにはワークとライフをバランスさせた方がいい、させるべきだ、という上から目線の思想が含まれている。
僕はそう感じる。
今ではだいぶ使われなくなってきた言葉ではあるけれど、生産性の向上(残業時間の削減)に関する話題においては、未だに幅を利かせている(良いとされる)言葉である。
「仕事を早めに切り上げて、生活の充実に使いなさい」
それは何も間違ってない言説のように聞こえる。
でも、その切断こそが、分断(分類)こそが、僕らを貧しくしているのではないか?
もっと言えば、ワークライフバランスに限らず、何かを分断せず、シームレスすることがある種豊かさに繋がるとは言えないだろうか?
そんなことを思ったので、今回はそれを文章化してみようと思う。
意味がわからないかもしれないけれど、読んでいただければ幸いである。
それでは始めていこう。
定義すると分断が生まれる
専門化。
分業。
それによって(残念ながら)生じてしまうセクショナリズム。
何かを「分ける」と、「こちら側」と「あちら側」が生じる。
それを定義することによって、明確にすることによって、今までは意識されてもいなかった差異に焦点が当たり、分断が生じてしまうことになる。
僕にはそう思える時がある。
境界を曖昧にすることは悪いことなのだろうか?
人間は何かというと分類をしたがる生き物である。
学問というのはある種分類によって成り立っているとも言える。
でも、僕が人間という生き物と仕事をしていて思うのは、曖昧にしておいた方が良い場合が相当数あるのではないか、ということである。
敢えて線を引かず、曖昧にすることで、結果として我々の間には分断が生じず、ある種騙された状態で豊かに生きていけるのではないか?
そんな風に思うのだ。
当たり前のように行われる明確化
これは仕事と生活(ワークとライフ)においても同様である。
仕事と生活を分けることによって、そこに意識が向かうことによって、差異が鮮明となり、分断が生じることになる。
仕事でない時は生活、生活でない時は仕事。
このような仕分け。
もっと言えば、生活を更に分類していったり(睡眠、食事、遊びなど)、仕事を更に分類していったり(営業、製造、経理など)もする。
そうやって、我々は我々が今何をやっているのかを定義し、明確化する。
それも当たり前のように行われている。
でも、そうしないことを考えてみてもいいのではないか、と僕は思うのだ。
スペシャリストと全体最適
ここにはスペシャリストとゼネラリストの概念も入ってくる。
そして、スペシャリストはポジティブなものとして、ゼネラリストはネガティブなものとして受け止められているような気もしている。
何かに「特化」していることは良いことである。
そのような考え方。
自分の仕事が言語によって説明可能であること、明確に説明できることが良いことであるという思想。
皆がスペシャリストになれば、専門度が上がり、生産性も向上するだろうという考え方。
そのような方向に進むべく努力すべきだという傾向。
まあわからなくはない。
でも、それって全体最適には難しいんじゃないかと僕は思うのである。
そして、全体最適化が難しければ、生産性の向上も、ひいては豊かさのようなものにも結び付かないのではないか、と僕は思うのである。
専門度が高まると、切断面が増える
リベラルアーツ。
レオナルド・ダ・ヴィンチ。
大谷翔平。
僕が考えるのは上記のようなイメージである。
確かにあらゆる分野において専門性を高めることは必要だろう。
「どれをやっても中途半端」では意味を為さないだろう。
ただ、それが統合された状態は、とても面白いものだと僕は思う。
もちろん、どの分野においても専門性を高めるのは非常に困難なことである。
だから、我々は分類を行い、その1つのカテゴリーの中で専門度を高めようとする。
それはよくわかる。
でも、全員がそのような動き方を志向すると、社会全体として良い状態にはなかなかなりづらいように思う。
それは上記したような分断が起きるからであり、セクショナリズムが生まれるから、もっと言えば、オーガナイズされていないから、である。
中途半端でもいいのでは?
僕はたとえ専門度が高くなくても、それぞれの分野が仮に中途半端でも、その「接続」が切れ目なく行われていることがもう少し評価されてもいいのではないか、と考えている。
それによって、分野と分野にまたがる発想が生まれ、そこにイノベーションが生じるのではないか。
Aという分野に特化するのもいいけれど、AとBの混交物に面白さや豊かさが生じるのではないか。
そしてそれは生活と仕事の間にも言えるのではないか。
僕はそのように思うのである。
分断しないことによる豊かさを
何かを分けると、カウンター(反対側)にあるものが悪く見える。
それは人間という生き物の性質上(進化において)仕方ないことなのかもしれない。
でも、そこを上手に接続することによって(分断をしないことによって)我々はもう少し豊かに生きられるようになるのではないか。
そして、それは「個」と「共同体」みたいなものにも当てはまるのかもしれない。
そんなことを僕は思うのである。
よくわからない話になった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
明瞭であること。
分かり易いこと。
それが現代では当然のように良いものだと思われています(デジタルとアナログの議論もそうかもしれません)。
ただ、本当にそうなのでしょうか?
何かを明確に定めることは、曖昧性を抑え、余白を許さない雰囲気を醸成します。
結果として、そこには分断や対立が生まれます。
もちろん、昭和時代のように、何もかも曖昧にし、誤魔化そうとする傾向が良いとは僕だって思いません。
ただ、汽水域には独特な生物が生息するのも事実です。
その両義性こそがイノベーションの源泉なのではないか?
僕はそのように思います。
曖昧性を毛嫌いせず、そこから逃げず、分断を超えていきましょう。