平等と公平と機会均等
僕たちに出来ることは公平と機会均等まででは?
マネジメントという仕事をしていると、否が応でも平等と公平と機会均等について考えさせられる。
平等…差別がなく、みな一様に等しいこと
公平…判断・行動にあたり、いずれにもかたよらず、えこひいきしないこと
機会均等…権利・待遇を平等に与えること
「最終的に平等にする為に、公平の概念に基づき、機会均等とする」
このようなイメージ。
ただ、平等というのは現実的には実現不可能なことでもある。
残念ながら、「差別がない」なんてことはないし、「みな一様に等しい」なんてこともない。
あくまでも理想的なイメージというか、概念の範疇にあるもの(もちろん目指すべきものではあるが)と僕は捉えている。
となると、僕たちマネージャーにできるのは、「公平の概念に基づき、機会均等とする」というところまでだ。
その結果について、(大なり小なり)不平等となるのは致し方ないことではないのだろうか?
今日はそんな話である。
学力と待遇の差
職場と学校。
それらを混同している人がとても多いように感じている。
どういうことか?
職場における待遇の差を、学校における学力の差のように読み替え、それは不公平だと捉えている、僕にはそのように感じられるのだ。
彼(彼女)らは、学力の差は、本人の努力(や才能)によってもたらされるものであって、外的な要因、たとえば贔屓のようなものによって左右されない、というように考えている(ように僕には思える)。
一方、待遇の差は、本人の努力(や才能)ももちろん関係がないとまでは言わないが、外的な要因、たとえば贔屓のようなものによって左右される、と。
そこから導き出される結論は、「フェアではない」というものだ。
「職場における待遇の差は、本人の努力に加え、贔屓の要素が多分に入っているので公平ではない、だから学校における学力の差のように、その贔屓の差分が生じないレベルまで、不公平さを減じるべきだ」
そのような考え方。
全く的外れとは言えない。
ましてやある人間の評価に、好き嫌いやその結果もたらされる贔屓という要素が多分に入っている(望ましくないとはいえ)ことは事実だろう。
ただ、同時に「それが世の摂理なのでは?」とも思ってしまうのだ。
現在時点だけでなく、過去からの経緯も考慮すべき
残念ながら、現実には贔屓や差別がある。
公平さにも疑義が生じている。
その結果、不平等がもたらされる。
僕だってこれを良いことだとは思わない。
確かにその不公平さを減じるべく努力はすべきだとは思う。
でも、そこにある差分というのは、彼(彼女)らが主張するようなもの(だけ)ではなく、機会を十分に活かせなかったことにも関係があると思うのだ。
そしてその過去からの経緯や、現実のパフォーマンスが考慮された結果、機会均等という考え方がある種歪められるというのはおかしなことではないのではないか?
僕はそのように思ってしまうのである。
現時点での公平を考えるのは不公平に繋がるのでは?
もちろん、どんな場面でも横一線、同条件でよーいドンと機会を与えるというのが公平だと考える人もいるだろう。
でも、それは僕からすれば歴史的経緯を無視しているとも言える。
物事には文脈や経緯があって、その瞬間だけのことをもってして、公平という概念を定義することはできない。
過去からどんな局面であっても努力を続けてきた者と、そうではない者を、ある事象に対して公平にする、もしくは機会均等にする、というのはどのようなことを指すのだろうか?
そこに差分が生じるのはある種仕方のないことなのではないだろうか?
「跳躍」もないのに、機会は与えられないぜ?
もちろん、その時点におけるディスアドバンテージを凌駕するような成果を上げ、過去からの経緯を断ち切る、というような方向性は許容されるべきだろう。
そうでなければ、いつまでも公平さが担保される可能性がないから(固定化されてしまうから)。
でも、どこかの時点では、そのような「跳躍」が必要とされるのではないか?
それなしに、同条件での機会を与えてくれ、というのは虫が良過ぎないか?
僕は(狭量なので)そう思ってしまうのだ。
フェアネスとは?
フェアネスというのは単時点における問題(だけ)ではない。
ただ、この公平さを持ち出す人は、どうやらどの時点を切り取っても公平であるべきだ、と考えているように僕には思われる。
もちろん、言わんとしていることはわからなくはない。
でも、「それを考慮する方が、フェアではないのでは?」と僕には思えるのだ。
ある時点の機会不均等が公平である場合もある
みな自分が可愛い。
自分のことは簡単に棚に上げる。
それは僕自身とて例外ではない。
だから、ある時点における機会の不均等に腹が立ったりすることもある。
それは公平ではないのではないか、と憤ったりすることだってある。
ただ、よくよく考えてみると、それだけではないのでは、と思うことになる。
その結果、不平等がもたらされたとしても、それが結果的には公平であるということだってあり得るのではないかと僕は思う。
過激な言い分かもしれない。
でもそれなくしては、真の意味での公平や平等なんて実現できないのではないかと僕は思うのだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
エセ平等・エセ公平・エセ機会均等に嫌気がさす時があります。
もちろん、言わんとしていること、言いたいことはよくわかります。
でもさ、と僕は思ってしまうのです。
物事には時間軸があって、単時点で切り取ったスナップショットは、一部分しか映し出しません。
それを殊更に大きく言う人も、またそれを鵜呑みにする人もたくさんいます。
また、それらに日和って迎合してしまう人もたくさんいます。
そういうの、もうやめたいんですけど。
確かに完全な平等も公平も機会均等は実現不可能です。
でも、もう少しどうにかは出来るような気がしています。
批判を恐れず、自分が信じるフェアネスを実現していきましょう。