評価!評価!評価!
評価を価値観の主軸に据え過ぎてない?
最近評価について考えている。
みんなそんなに評価されることが大事なのだろうか?
そんな青臭いことを思っている。
「いやいや、(無関心を装っているけれど)あなただって評価されたいでしょう?」
確かに、評価されたい。
でも、そのバランスというか、濃度というか、は重要だと思うのだ。
そしてこの文脈からわかるように、僕は評価(被評価)を価値観の主軸に据え過ぎている人が増えていることに違和感を覚えている。
評価とはある種のゲームである。
そのゲームで高得点を取る為の効果的な動き方は確かに存在する。
また、それを志向することは必ずしも悪いことではない。
それはそうだ。
ただ、その重み付けはもう少し是正されてもいいのではないか?
今日はそんな話である。
評価レバレッジを最大化するゲーム
評価されるから、やる。
評価されないから、やらない。
このような行動軸。
これは確かに合理的であると言える。
コストパフォーマンスの高い動き方が求められる現代社会に適応していく為には、このような判断軸が必要でないとは言えない。
でも、それがあまりにも露骨過ぎると、流石にどうなのだろうか、と僕は思ってしまう。
ましてや、そこに信念みたいなものが感じられないとするなら、それはなかなかに厳しいことなのではないか。
更に、「どうやったらより効率的に評価されるか」という概念がここに加味される。
いかに省エネで、いかに高い評価レバレッジを掛けられるか?
そのようなゲーム構造が所与のもの(デフォルト)になっているような気がしている。
なぜ評価されたい顔はしないの?
「いや、そんなの昔からそうでしょう?」
「何をそんな甘ったれたこと言ってんの?」
まあ、その言い分もわかる。
ただ、矜持みたいなものがあってもいいのではないか、とは思うのだ。
もっと言えば、評価されることを至上の価値とするなら、そう振舞えばいいのに、と僕は思ってしまう。
そういう価値規範で動きながら、私は評価されることに価値を置いていませんよ、という顔をする人の多いこと多いこと。
客体が主体を乗っ取る
いや、それも別におかしなことではないのかもしれない。
多くの人は(僕も含めて)そのような顔をしながら仕事をするものだから。
でも、それがいつしか所与のものとなって、というか所与となっていることすら忘れてしまって、客体が主体を乗っ取るような事態になっているとするなら、やっぱり問題だと思うのである。
被評価至上主義
営業なんていう仕事は、まさにその主戦場とも言える。
どうやったら効率よく評価されるか、それを求めて仕事をする。
まあそれは防ぎようがないことなのかもしれない。
でも、それが被評価至上主義にまで昇華してしまうと、流石にマズいのではないかと僕は思う。
それも自覚なしに行われているとするなら、やっぱりどこかおかしいのではないかと思うのである。
主体を被評価から取り戻す
これは最近僕が考えている「主体性」というものにも関係してくる。
僕は仕事を楽しく行う為には、少なくとも楽しいと自分を騙せるくらいのレベルにするには、主体性があることが重要であると考えている。
もちろん、会社という組織で働いている以上、100%の主体性というものはあり得ない。
でも、できるだけ多くの主体性を自分の範疇に取り戻すことは、自己肯定感を強め、結果、仕事に対する満足度を向上させることに繋がる。
そして、多くのコントロール出来ない物事の中で、比較的コントロール可能なもの(かつ大きな影響力を持つもの)が、今回のテーマにある「評価」に対する向き合い方なのではないか、と僕は考えている。
被評価という概念を薄めることができれば、仕事には主体性が増し、結果満足度が向上する。
そしてそれは必ずしも評価されないということを意味しない。
僕はそのように考えている。
オトコ受け・オンナ受け
これはモテの概念に似ていると言えるかもしれない。
モテたいという価値観で行動することは悪いことではないけれど、実際にモテるかどうかというのはまた別の話である。
でも、モテるかどうかは別として、自分の好きな服を着たり、自分が好む髪型にしたりすることは、自分に対する満足度を確実に向上させる。
そして、そのような(ある種の強い)自己を持っている人は、結果的にモテたりもする。
何だか変なたとえになってしまったけれど、僕はそのように思うのである。
主体性を経由しよう
評価への回り道。
それは確かに評価に囚われていないとは言えない。
評価への執着(煩悩)みたいなものは捨てきれていない。
でも、そこに一直線に向かうのと、一旦主体性を経由するのとでは、その意味合いが大きく異なるように思う。
もちろん、この場合でも最終的に評価されたいということが強く出てしまうのであれば、同じことではある。
ただ、評価されるかされないかは他者次第であり、ある種水物である、ということを、もう少しだけでも思うことができたら(主体性を少しだけでも取り戻すことができたら)、仕事というものはもう少し自由になると思うのだ。
評価されなくても、楽しい仕事はある。
そしてそれは必ずしも自己満足で終わるものとは限らない。
それがわかった時、仕事は、そしてマネジメントは、罰ゲームではなくなるのかもしれない。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
価値の源泉を外部に置くとキツいぜ?
僕が他者に思うことです。
それも特に若者に対して。
「自己満」という言葉が蔑まれまくった結果、みんな「他者満」に振り回され過ぎ。
他人など他人に過ぎない。
あなたのことなど微塵も大事に思ってなんかくれない。
社会性は大事ですが、「嫌われる権利」は手放しちゃいけないと僕は思います。
嫌いな人に嫌われる勇気を。
それを喜べる感性を。
こんな風に捻くれた僕ですが、懲りずに引き続き読んで頂けたら幸いです。