KPIっている?

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定性的なものを定量化する為の指標

KPIの欺瞞性。

それについて最近は考えることが多い。

KPIというのは、Key Performance Indicatorの略語で、日本語では重要業績評価指標と訳されることが多いアレである。

ある目標へ向かう為の、プロセス面における達成度合いを測る為の指標として使われることが多いこのKPIは、定性面を定量化する為に役に立つものではあると思う。

ただ、その本質についてはよくよく考えた方がいい。

そんなことを僕は思う。

プロセスというのは曖昧なもので、それをKPIという定量化指標に置き換えたところで、それが本質的か否かというのは一見するとわからないものである。

だから、我々マネージャーはそれを見に行かなければならない。

そのKPIが本質的な行動からもたらされたものなのかただその数字を上げるべく行われたものなのか(上辺だけのものなのか)を吟味する必要がある。

となると、結局のところ、定量化されたものを再度定性化する必要があるということになる。

定性面を定量化し、またそれを定性化する(戻す)行為。

その一連の行為によって、プロセスがある種偽装されること。

ん?

そもそもKPIにする必要あるん?

今日はそんな話である。

スパットのようなもの

ボウリングのレーンにある三角マーク。

アレのことを僕はKPIの例えとして使うことがある。

それは部下にKPIという横文字を言ったところでよくわからないからである。

「ボウリングのピンという目標を倒す為には、それも多く倒す為には、その過程において、適切なルートを辿る方が、その確率が上がる

「ただそうは言っても、目安となるものが何もないと適切なルートがどこなのかわからない(わかりづらい)し、評価もしづらい(例えばレーンの中にズカズカと入っていって、ピンだけ倒せばいいのかというとそんなこともない)」

「その目安となるのが、あの三角マーク(スパットというそうだ)である」

そんな説明をすることがある。

手段の目的化という倒錯が往々にして起きてしまう

でも、この話を間違えて解釈すると、KPIを上げることが目的化することが往々にして起きてしまう。

手段の目的化。

「取り敢えず三角マークの間だけ通せばいいんでしょ?」

そのような行動が、散見されるようになる。

でも、その投球が、取り敢えず三角マークを通ることを企図して投げられたものなのか、そうでないのかというのは、一見するとなかなかわかりづらいものでもある。

ましてや、それを評価するとなると、至難の業である。

さて。

そのような指標であるKPIって必要なのでしょうか?

ピンを多く倒せれば、スパットを通ってなくてもいいのでは?

僕が成果評価を強調するのは、この辺の問題意識があるからである。

KPIばかりを気にすると、フォームが画一的になる。

みんな器用で、上品な投げ方になる。

それは「三角マークを通しなさい!」と我々マネージャーが言っているから起こる現象ではある。

ただ、僕は変則フォームであっても(結果三角マークを通さなくても)、多くピンを倒せればそれでいいんじゃない? という考えを持っている。

もちろん、ルールは逸脱してはならない。

先述したように、レーンの中に入ってしまうような投球はNGではある。

ただ、そのルールの範囲であれば、必ずしも小綺麗に投げる必要はないのではないか?

そのように思うのである。

ストライクが取れないボウリングほどつまらないものはない

KPIという言葉や概念が浸透した結果、どの担当者のフォームも似たり寄ったりになってしまって、それも小さく纏まってしまっていて、確かにピンは多めに倒れるのかもしれないけれど、ストライクまではいかないな、というのが僕の実感である。

もっと言えば、連続ストライク(ダブル)なんてことは殆ど起きないし、ターキーなんてものは夢のまた夢である。

成果を上げるべくして導入されたはずのKPIは、そのような状態をもたらしているように僕には思えるのだけれど、実際に投球をしたことがない偉い人たちは、そのフォームが皆綺麗に揃っていることに満足を覚えているようである。

この違和感。

それってマネージャーの仕事なの?

と同時に、彼(彼女)らは、「そのような違和感を是正するのがお前たちミドルマネージャーの仕事だろ!」と簡単に言ってくる。

「KPIが本質的なものなのか、そうでないのか、見極めて評価を下すのがお前らの仕事だろう!」と彼(彼女)らは言う。

確かに、そうだ。

でも、だとしたら、一旦プロセスをKPIという指標に置き換える必要ってあるのかな? と僕は思ってしまう。

KPIがなくてもホンモノとニセモノの区別はつく

もちろん、絶対的な感覚に頼っていた時代に比べれば、目安となる数値があることは、その評価の助けにはなるだろう。

ただ、実際にプレーヤーとして投げていた経験から判断するなら、そのような目安となる指標がなくても、その投球が本質的なものなのかそうでないのかは一目瞭然であると僕は思ってしまう。

小ズルいことをする営業マンなんてものは、すぐにわかる。

でも、実際に営業をしたことがない(偉い)人たちには、それがわからない。

だからKPIに頼ろうとする。

僕にはこの一連の作業(行為)が無駄に思える。

信頼していないだけでは?

もちろん、恣意的な評価をするマネージャーは論外だ。

感覚だけに基づいて判断を下すのは違うと僕だって思う。

ただね、というのが今日の話である。

何だかエリーティズムというか、秀才主義というか、そのようなニセモノ臭を僕は嗅ぎ取ってしまう。

成果だけで良くね?

というか、もう少しミドルマネージャーを信頼すれば良くね?

変な話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

最近「目標っていらないよね?」ということを考えています。

真っ当な仕事のやり方をすれば自ずと成果は上がるし、それは目標を置かなくても勝手になされるものなのでは?

そんな(ある人からすれば理想論的な)ことを考えています。

目標を置くから行動が歪むわけで、そもそもそんなものを失くして人間を信頼すればいいのではないか?

そして、もしそのような行動ができないのであれば、降格させるなり減給させるなりすればいいだけでは?

今回のKPIも似たようなものです。

本質的な仕事をしていきましょう。