批判と公開処刑ばかりではアジャイルなんて夢のまた夢
リスクテイカーに称賛を
他者を攻撃するあの雰囲気が嫌いだ。
それも公開処刑だともっと嫌だ。
でも、こんなことは頻繁に起きる(ウチの会社だけか?)。
そんな環境の中で、誰がリスクを取ろうとするだろうか?
前向きな提案をしようとするだろうか?
結局のところ、日本が停滞しているのは、このような批判合戦のマインドが原因なのではないか、と最近は考えている。
妬み、嫉み、足の引っ張り合い。
陰湿な非難の応酬。
もううんざりだ。
僕は成果が大事だと考えている。
成果を上げるためにはリスクを冒す必要がある。
そのようなリスクテイカーを批判する文化をやめて、称賛する文化にしなければ、日々仕事をアップデートしていく(アジャイル的に)なんて夢のまた夢なのではないか?
今日はそんな話である。
失敗が起きないのは、成功確率が高いことしかやっていないからなのでは?
失敗は悪いことなのか?
そんなことを思う時がある。
もちろん、失敗はないに越したことはない。
でも、何か新しいことをやる以上、失敗というのは否が応でも生じてしまうものだ。
そこに属人的要素がないとまでは言えないけれど、どちらかというと確率論的な世界の話であると僕は考えている。
失敗は起こるものである。
というか、もし失敗が起きていないなら、それはリスクを取っていない(成功確率が高いものだけしかやっていない)ということを意味するのでは?
僕はそんな風に思うのである。
批判を恐れ、シュリンクし続ける社会
でも、多くの人は、失敗を悪いものだと考えている。
できるだけ失敗がないように、皆行動しているように見える。
それは他者から批判されるのが怖いからだ。
非難の矛先が自分に向いて、下手をすれば公開処刑されるのを恐れているからだ。
僕はあの雰囲気が嫌いだ。
その批判の対象が自分に向いていなくても、あのような陰険かつ湿っぽい雰囲気が嫌でたまらない。
それでも、誰かを批判することで、生産性が高まるというなら、まあ許容できないこともない。
でも、多くの場合、ただシュリンクするだけで、何の成果にも繋がらない。
結果、皆リスクを極小化した行動しかしなくなる。
それも、上からの指示を待つだけの。
典型的ウォーターフォール型モデル。
時代錯誤では?
失敗はただのデータ採取だ
いつも言うように、失敗なんてものはただのデータ採取に過ぎない。
新しいデータが得られてよかったな、くらいの感覚でいいのだ。
そこに批判なんて必要ない。
というか、むしろ新しい知見が得られたことを喜ぶべきなのだ。
でも、何故だかそんなことは起こらない。
みな眉を寄せ、不機嫌そうな顔をしている。
そして、「アイツが失敗した!」と指をさし合っている。
心の中では拍手喝采を送って。
なぜリスクテイカーを嘲笑するのか?
僕は日本人というのは、本当に底意地が悪い人が多いなと感じる。
なぜリスクを取った人をバカにするのか?
自分は全くリスクを取らないのに、なぜリスクを取る人の足をそこまで引っ張るのか?
僕には本当によくわからない。
リスクテイカーは称賛されるべきだろう?
というか、リスクを取ってくれたことに対して、単純に感謝したらいいのではないか?
そのような行動によって、新たな知見が得られ、一歩前に進めたことを、称えるべきなのでは?
それは共同体への貢献なのだから。
ウニとフグ(とその他諸々の食べ物)
このようなことを考える時、僕は最初にウニを食べようと思った人のことを思い浮かべる。
あんな刺々した外殻があるものを、それも割ってみたらグロく見えるあの身を、よく食べてみようと思ったものだな、と僕は思う(因みに僕はウニが大好きだ)。
いや、例えとしてはウニよりもフグの方がいいかもしれない。
フグには毒がある。
きっと何人もの先人たちが、フグを食べて、たくさん死んでいったのだろう。
でも、そのおかげで、僕たちはフグを美味い美味いと今食べられている訳だ。
それはある種アップデート的と言えるのではないか?
たくさんの失敗を重ねながら、一歩一歩前に進む、アジャイル的な動きと言えるのでは?
ウォーターフォールモデルの限界
もちろん、フグに対して、事前に研究に研究を重ね、完璧な計画を基に、プロジェクトを進行していくというやり方もあり得たのかもしれない。
でも、「取り敢えず食べてみなければわからないよね?」というアプローチ方法(ただ食欲に負けた?)だったからこそ、僕たちは素早く前に進めたのではないか?
もちろん、そこにはたくさんの犠牲が生じたであろう。
ただ、だからと言って、僕たちは歩みを止めるべきなのだろうか?
フグの前に立って、アレコレ合議を重ねて、いつまでもそこに留まっているべきなのだろうか?
僕にはよくわからない。
「取り敢えず食ってみる」はバカのやり方なのか?
確かに、致死量までフグを食べるというのは適切なアプローチではないかもしれない。
でも、まず食べてみないことにはわからないことだってきっとあるはずで、切れ端だけ食べてみよう、そこから考えてみよう、というやり方だってアリなのではないか?
それを行う人を、「何も考えていない」とか「後先考えずに突っ走って」とか、ただ突っ立っている人が批判するのはやっぱりおかしいのでは?
仮に称賛までできないなら、黙ってそこに立っていろよ。
僕はそう思うのである。
黴が生えそうだ
ウェットな空気。
年中梅雨みたいな(カビの生えた)会議室。
乾いたマネジメントを志向していきましょう。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
僕は他者批判が嫌いです。
というか、他者を批判するヤツに限って、自分がその批判内容に該当するような行為をやっている(た)にも関わらず、それを平然と口にし、厚かましく他者を排撃するので、本当に嫌になります。
日本にイノベーションが生じないのは、エンゲージメントが低いままであるのは、そりゃ当然だろう? と僕は思ってしまいます。
批判されることがわかり切っているのに、挑戦なんてしようと思うはずがありません。
そして、そのような環境に日々晒され続ける組織に、帰属意識なんて持てるはずがありません。
日本社会にアプデ通知はいつ来るのでしょうか?
それともこのままサービス終了となるのでしょうか?
暗い話ばかりで恐縮です。
懲りずに引き続き読んで頂けたら幸いです。