「それが管理職の仕事だろ!」ってお前もな!

UnsplashXavi Cabreraが撮影した写真

自分でできもしないことを部下に求める上司たち

「無理難題を部下に腹落ちさせろと強要してくる上司が皆さんの周囲にはいませんか?」

今日はそんな問い掛けから文章を始めてみる。

そして、このような上司は、自分自身が部下を腹落ちさせることができていないことを認識していない。

そうなのだ。

部下である僕自身が、彼(彼女)らの言うことに納得していないのだから。

でも、他者(部下)にはそれを求めるし、簡単にできると思っている。

このような構造。

でも、よくあることのように僕には思える。

自分ではできもしないことを、簡単に部下に求める人たち。

また、それを受けて、更に下の部下に同じように求める人たち。

恥の意識はないのだろうか?

今日はそんな愚痴めいた話である。

部下を腹落ちさせるのは管理職の仕事。だが?

「部下を腹落ちさせるのが管理職の仕事である」

この言説に異論はない。

部下を腹落ちさせるのは管理職の仕事である。

ただ、その話者である当人が、まずその施策なり企画なりに納得していることが前提であるようには思うのだ。

もちろん、完全に、とまでは要求しない。

会社において、完全に納得できる施策や企画なんてものは存在しないから。

でも、それが殆ど納得できないような施策や企画である場合、どうしたらいいのだろうか?

変更の余地がなく(成功の見込みもない)施策への対処方法とは?

まず考えられるのは、その施策や企画に変更の余地がないのか議論することである。

成功の可能性を少しでも高められるよう、何らかの対案を出し、そこに納得性を付与しようとする試み。

それが多少なりとも叶えば、上記のような悩みは軽減されるだろう。

しかしながら、それが叶えられなかった場合はどうだろうか?

議論の余地がなく、「もう決まったことだから」と一蹴された場合、中間管理職であるマネージャーはどのように行動すべきなのだろうか?

僕にはここがいつもよくわからない。

だから、それを自分の上司である上級マネージャーに問うことになる。

でも、彼(彼女)らからの回答はいつも同じである。

「それをやるのがお前の仕事だろ!」と。

なぜ偉い人は免責されるのか?

確かに、言わんとしていることはわからなくはない。

大なり小なりある理不尽さを飲み込んで、部下に腹落ちさせながら、施策なり企画を推進していくことは、確かにミドルマネージャーに求められる資質であるだろう。

ただ、同時にこうも思うのだ。

「ミドルマネージャーを納得させるのは、上級マネージャーの仕事ではないのか?」と。

彼(彼女)らはそのような努力を免責されているように僕には思える。

そこには厳然たる階級構造が存在しているかのように僕には思える。

「私はやらなくていい(なぜなら私は偉いから)」

「でもお前はやれ(なぜならお前は偉くないから)」

そのようなある種の特権意識

ここにいつもウンザリするのだ。

納得できていなくても、ただ指示を降ろせばいい?

いや、こんなことを感じずに、僕も同じように部下に求めればいいのかもしれない。

葛藤することなく、能面のような顔をして、「やれよ」とただ指示を降ろせばいいのかもしれない。

それが会社の求める上司としての資質なのだろう、きっと。

でも、僕はそこに躊躇いを感じてしまう。

自分でも納得できていないもの、それも1ミリも納得できていないものを、シレっと部下に指示することはできない。

そうか。

だから僕は偉くなれないのだ。

当社が低迷していることは当然理解してるよね?

僕は自分でできないことを部下に求めることに呵責を感じる。

もちろん、だからと言って(自分にできることは有限であるので)、そのような仕事を依頼することがない訳ではない。

大事なのは、そこに躊躇いがあるかどうかであるような気がしている。

もちろん、会社が進めようとしている方向性を変えるのは難しいだろう。

上級マネージャーだって、その上司から指示されただけであって、その流れを変えることは不可能に近い性質であることは僕だって理解しているつもりだ。

ただ、その流れを少しでも弱めなければ、見当違いの施策なり企画が現場で遂行されることになるだけである。

というか、その流れを弱めなければならないという発想がないから、そのままの指示を降ろすことができるのだろう。

その結果が、当社の長年に亘るこの低迷なのだろう。

内輪揉めと的外れの企画

僕は仕事においては、偉いとか偉くないとかはあまり関係がないと思っている。

単純にその能力によって、というか、そこに価値を付与できるか否かによって、判断されるべきであると考えている。

もちろん、完全なる対等関係というのは構築不可能だろう。

ただ、それなりの敬意(リスペクト)はあってもいいのではないか、とは思うのだ。

職階を問わず、施策なり企画が成功する為の議論を、忌憚なく話せるようにならなければ、会社が良くなっていくことはない。

少なくとも、自分でできもしないことを、何の躊躇いも恥じらいもなく、他者に求めてしまえるような文化では、他社との競争に打ち勝つことなんて夢のまた夢だろう。

それでもいいならいいけれど。

結局は価値観の問題か?

僕は躊躇いや恥じらいを持って仕事をしていきたいと思っている。

仕事上、無理難題を部下にお願いする場合にも、そこには一定の呵責を持っていたいと思っている。

変な話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

面の皮の厚さ。

それがなければ、上司というのは務まらないのかもしれません。

でも、そこには他社との競争、そしてその立ち位置は考慮すべきであるような気がしています。

内部の論理は外部には通用しません。

勝てる戦略を遂行していきましょう。