部下は教えられて育つものなのだろうか?

UnsplashFeliphe Schiarolliが撮影した写真

試行錯誤をさせる場面を仕掛けていく

マネージャーには部下育成という重要な仕事がある。

それに取り組むたびに僕には大きな疑問が浮かんでくる。

「部下は教えられて育つものなのだろうか?」と。

これは自分自身を振り返って思うことでもある。

僕は誰かに営業を教わった記憶がない。

もちろん、それなりの研修期間と、それなりのOJT期間のようなものはあったけれど、それで僕が育ったという実感は全くない。

また、誰か先輩がいて熱心に教えてくれたり(そもそも先輩がいなかった)、上司が手本を見せてくれたり(上司は違う畑の人だった)、そんなこともなかった。

となると、曲がりなりにも僕が営業マンとして成長できたのは、誰かに教わったからではなく、自分で何とか試行錯誤をした結果だからなのではないか、と思うのは別に変なことではないように思える。

そして、今度はそれをマネージャーという立場に置き換えてみた時に、僕たちマネージャーにできることは、そのような試行錯誤をさせるような場面を数多く仕掛けていくこと、それだけなのではないか、ということに思い当たった。

今日はそんな話である。

基礎って必要?

守破離。

「守」とは、師の教えを忠実に守ること。

「破」とは、自分で考え工夫すること。

「離」とは、独自の新しい世界を確立すること。

人が物事を習得する流れを表した素晴らしい考え方だと思う。

そして、ここには「基礎」→「応用」という考え方も含まれているように思う。

まず身に付けるべきは「基礎」「基本動作」であり、そこから自分なりに考えた方法(応用)に向かっていくというような流れ。

感覚的に何もおかしなことはないように思われる。

でも、ここに疑問を持ってしまうのが僕という人間の偏屈なところなのである。

本当に「基礎」というものが必要なのだろうか?

というよりも、「基礎」だと言われているものは、本当に「基礎」なのだろうか?

言い換えれば、それは何かを熟達していく過程において、なくてはならないのものなのだろうか?

むしろ、それは熟達することを阻害することだってあるのではないか?

そんなことを僕は思うのである。

サッカーのイメージ

ここには僕が学生時代にやっていたサッカーと、本や映像で見た古武術に関する概念が関係してくる。

確かに、本当に最初の頃には、ボールの蹴り方やトラップの仕方というものを教えられる必要があるのかもしれない。

でも、それによって、ある種概念が固定化されてしまうような気もするのだ。

そして、例えばインステップキックだけを考えてみても、プロはそれぞれ微妙に異なる蹴り方をしている。

それも中にはとても変則的な蹴り方をする選手だっている。

それは単純にそれぞれの選手の骨格や筋肉の付き方が異なるからである。

それが守破離で言うなら、離の部分であると確かに言えなくもない。

でも、だとしても(だとすると)、守の部分って何なのだろうか、と僕はまた思ってしまう。

「守」っている?

冒頭に書いたように、「守」とは師の教えを忠実に守ることである。

サッカーの例に戻るなら、インステップキックとはこう蹴るものだというコーチの言うことを忠実に守ることになる。

でも、何故だか自分の場合は強いボールが蹴れないし、遠くにも飛ばない。

だったら、その教えを守る必要なんてあるのだろうか?

早めに「破」の段階に移行してしまった方がいいのではないか?

そんなことを思ってしまう。

型を身に付ければ熟達する訳ではない

「基礎が大事」と皆口をそろえて言う。

それをまず身に付けてから、次のステップに進むべきだと誰しもが考えているように僕には見える。

そして、仕事にまた話を戻すなら、その基礎を身に付けさせる指導をするのがマネージャーであるという概念がとても強いように僕には思える時がある。

そこから営業というものに話を絞るなら、確かに「型」はある。

でも、その型通りにやれば、営業が熟達する訳ではない。

むしろその型を意識することによって、それ通りにやればいいのだと考えることに繋がるような気さえしている(最近は何でもマニュアルに頼ろうとするし)。

もっと自由でいいのでは?

というか、そのような基礎に縛られた状態から解き放つのが、マネージャーの役目なのではないか?

そんな風に僕は考えている。

基礎のない応用はダメ?

応用はある人にとっては応用ですらない。

それが当たり前のものとして最初から行われる場合だってある。

でも、僕たちはなぜか基礎を重要視する。

基礎という裏付けのない応用は早晩ダメになる、と無意識に思ってしまっている。

そうか?

古武術のイメージ

「基礎を叩き込む」という概念は、僕には正直言ってよくわからない。

でも、会社はそのような指導を望んでいるように感じられる時がある。

結果、パンチとはこのように打つものだ(一旦ためて捻り出す)という人が量産される。

その中で抜きんでる為には、そのためるという一拍を不要とするパンチ(古武術的なパンチ)が必要なのではないか?

そしてそれは誰かに教えられてできるようなものなのだろうか?

僕はそんなことを思ってしまう。

基礎=AIに近づくだけでは?

応用をけしかけるような仕掛けを。

そのような環境構築を。

マニュアル通りの基礎が完璧にできればできるほど、AIに近づくだけだろう?

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

本文はあまり上手く書けませんでしたが、たぶん当時の僕が言いたかったのは「マニュアル化へのアンチテーゼ」なのだと思います。

最近はとにかく「再現可能性」というものが重要視されているような気がしていて、そこには「アナログへの嫌悪」が存在している(底流している)ように感じています。

確かに、昭和時代のように感覚に任せた仕事のやり方には問題がたくさんあることは事実でしょう。

ただ、それがあまりにも形式化(マニュアル化・デジタル化)するのもどうなのかと僕は思っています。

デジタル(0と1の世界)で切り分けられるものは、AIで再現可能です。

それって、そんなに尊ぶべきものなのでしょうか?

というか、「再現可能性」というのは、人間が行う必要がない、ということも意味するのでは?

僕はそんな(変な)ことを考えています。

部下の育成も似たようなものです。

金太郎飴のような部下に僕は魅力を感じません。

多様性とこれだけ言っている世の中において、均一化が進行する謎の逆行感

再現できないものを目指して仕事をしていきましょう。