インテグリティ・マネジメント

UnsplashJay Castorが撮影した写真

他者は何にも解決してくれない

日々仕事をしていると迷うことがたくさんあると思う。

困難も結構な頻度で訪れる。

それなりに気が滅入ることだってある。

そんな時に何を拠り所にすればいいのか?

多くの人はここで「他者」を挙げるような気がしている。

「具体的な誰か」ではなくても、何らかの称賛や慰めを欲する、それによって自信を取り戻そうとする、それ自体は別に悪いことではない(僕だってそうだし)。

ただ、究極的なことを言わせてもらうなら、他者は何にも解決してくれない。

あくまでも自分でその苦境を切り抜けなければならないのだ。

ただ、そうは言っても、弱っている時にはそんな気力も湧いてこない。

でも、9年以上マネジメントをやってきた僕が思うのは、たとえ気力がない状態であっても、これだけは失ってはいけないという性質のものがある。

それがインテグリティ(誠実さ・真摯さ・高潔さ)である。

これだけあれば、まあ大丈夫。

そんなことを今日は書いていこうと思う。

たくさんの思惑に翻弄され続けるのがマネジメントという仕事ではあるけれど…

「誰かのせいにしない」

マネジメントという仕事が、「誰かのせい」であることを骨身にこたえるくらい味わった僕が重要だと思う考え方がこれである。

プレイヤーと違い、マネジメントという仕事は「誰か」によってその影響を大きく受ける性質を帯びている。

そして、その「誰か」も1人ではなく、複数の人々が様々に入り乱れて、また時制も揺れ動いていく。

そのような「たくさんの思惑」の中で、翻弄され続けるのがマネジメントという仕事と言えるのかもしれない。

人のせいにしたくなる気持ち。わかるぜ?

また、関係者が多いことは、自分の力でどうにかできる領域が狭いことを同時に意味する。

もちろん、マネジメントの力によって、そのような状況を変えられることは(多分に)ある。

全くの無力、ということはない。

でも、その限界も確実にある。

それが自分の力不足であることは事実であるけれど、それ以上のことだってたくさんある。

そんな時に、「誰かのせい」に僕らはしてしまいがちだ。

泣き言を言ったり、愚痴をこぼしたり、自暴自棄になりかけたり、そのような「弱さ」が前面に出てきてしまう。

そして、「誰か」を呪うと同時に、「誰か」に慰めて欲しいと思う。

人間としてはまあ当たり前の話かもしれない。

僕たちはそこまで強くはないから。

でも、そんな時に、忘れないで欲しいのが、インテグリティである。

もう少しわかりやすい言葉で言うなら、「誰に向いて仕事をするか」である。

迂回的なルートを

僕はマネージャーになって、人間の嫌な部分をたくさん見てきた。

本当に人間不信になるくらい、ドロドロとしたヘドロのようなものをたくさん浴びてきた。

そして、そのような状況が看過されるということも、組織で働いている以上それなりにあるのだな、ということも体感してきた。

思い出すだけで吐き気がするくらいの重い話だ。

ただ、それと同時に、きちんと自分に向き合って、誠実に仕事をしていれば、「誰か」は見ていてくれるのも事実である。

そうなのだ。

結局のところ、僕も「誰か」に救われたいと思っているし、実際に「誰か」に救われてきた。

ただ、上記したようなルートとは違って、それは迂回的にもたらされるものなのである。

直線的に「誰か」に救われたいとするのではなく、大事なことは自分に向き合うこと、その結果、運が良ければ「誰か」が救ってくれる、そのような経路を辿ることが重要なのである。

自分の存在意義を外部に委ねてはいけない

外部にある何かや誰かに、自分の存在意義のようなものを委ねてはならない。

何だか宗教がかった話のような書きぶりかもしれない。

でも、たくさんの経験をした僕が思うのは、そのようなことなのである。

たくさんの欲望たち

出世欲。権力欲。金銭欲。性欲。その他諸々の欲望たち。

日本人的に言うなら、たくさんの煩悩たち。

それに翻弄されるのが会社員というものなのかもしれない。

ましてや、管理職ともなれば、その機会が実際に手の届くような範囲にある訳で、何としてでもそのチャンスをつかみ取りたいと必死になるのも別におかしなことではない。

そして、その為に他者を押しのけたり、部下を生贄にしたりするのも、許されはしないまでも、現実的には起こり得るよな、ということも理解できる。

でも、僕はそのような仕事はしたくないのだ。

別に格好つける訳ではないけれど、そのようなカテゴリーに自分が入るのが、僕は何よりも嫌なのである。

ダサい仕事はしない。ただそれだけ。

ダセえ仕事はしねえ。

「インテグリティ・マネジメント」なんてイキったタイトルを付けたけれど、僕が言いたいことは、「ダサい仕事をしない」それだけである。

結果として、割を食っても、出世が遅れても、給料が上がらなくても、その対価というか、バーターとして、「ダサい仕事」をしなければならないのであれば、僕はそれらを受け入れようと思う。

ただでさえブルシットな仕事が溢れているのに、これ以上(人生を)ブルシットにしてどうする?

僕はそう思うのである。

もちろん、意固地になることなく、修道者のように孤高を極めるのでもなく、柔軟かつ誠実に僕はこれからも仕事をしていこうと思っている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

誠実に働くこと。

自分が信じる誠実さに背を向けないこと。

それが結構重要なことだと僕は思っています。

それがあれば、最低限自分が自分のことを信じられれば、マネジメントという仕事を続けていくことは可能です。

高潔さを失わず、誠実に働いていきましょう。