辞めたい毎日の延長戦

UnsplashLukas Blazekが撮影した写真

長いロスタイム

毎日「仕事辞めてえなあ…」と思いながら会社に行っている。

それは別に最近始まった話ではなく、管理職になって暫く経ってからずっとである。

でも、僕は未だに管理職という仕事を続けている。

この矛盾(のようなもの)

これは「決断力がない」ということを意味するのかもしれない。

単純に辞めればいいのに、会社にしがみついて、そのままの状態を続けている(それも低モチベーションで)。

それは会社にとっても、僕自身にとっても、良くないことのように思われる。

ただ、「静かな退職」の議論においてもそうであるが、多くの働いている人の実感というのは多かれ少なかれ上記のようなもの(もしくはその亜種や変種)であるのではないか、と僕は思っている。

もちろん、僕くらいの強度で「辞めたいな」と思っている人はそこまで多くはないのかもしれないけれど、ぼんやりと「今の仕事を続けていていいのかな…」と思っている人は無数にいるはずだ。

完璧な仕事などない。

そんなことは百も承知だ。

でも、もう少し…、というのが大方の意見ではないだろうか。

今日はそんな共に延長戦を戦う人たちに向けた話を書いていこうと思っている。

それでは始めていこう。

管理者に向いていないという自己認識と現状の乖離

なる前もなった後も、管理職に向いていないなあ、と思いながら仕事を続けている。

そして、それが累計9年になる。

そういう意味では、僕は客観的に見れば「管理職に向いている人」と評価されるのかもしれない。

9年間の間に、何回か人事部の人と話をし、そこで「管理職以外の道」についても話をしたように記憶している。

でも、僕は人事異動の度に、また管理職というポストに就いている。

不思議なことである。

そのようなことが繰り返された結果、僕は毎日「辞めたいなあ…」と思い続けている。

青い鳥症候群

ただ、これは「リタイアする」ということを意味しない。

多くの人と同じように、何らかの形で働いていきたいとは思っている。

でも、今のような高ストレス環境ではなく、もう少しダウンシフトした状態での働き方を模索している。

そんなのはきっと皆同じだろう。

そして、そんな働き方など存在しないのだろう。

でも、僕はそれをずっと夢想している。

結果、気が付けば、管理職になってから9年以上が経過している訳である。

プレイヤーって楽しいっ!

その間、一時的にプレイヤー的な仕事をすることがあった。

管理職という責任から離れて、好き勝手やっていい、という期間があり、その時は「本当に楽だな」と感じたものだ。

もちろん、その仕事自体が楽だったということを言いたい訳ではなく、全体の進行やバランス、利害調整、人間関係の整備等々をやらなくていいということが、こんなにも精神的に楽なのかと実感したのである。

「ただ自分のすべきことに集中すればいい」という環境。

それは忘れていたけれど、実はとても恵まれたものであること。

そして、だからこそ、多くのマネージャーは、プレイヤーからマネージャーに転換した途端、苦境に陥るのだろう。

客観的になると、熱量は落ちる

マネージャーは状況を俯瞰して見る必要がある。

そういう意味では、マネージャーというのは、仕事に対して客観的になりがちである(ならざるを得ない)とも言える。

単純に、仕事に対する近さ(近接度)というか、熱量が落ちてしまうのだ。

となると、「面白さ」という観点からは、どうやっても高得点を出すことはできない。

仕事に対する「のめり込み感」はどうやったって薄くなってしまう。

褒められないし、自分も褒めることができない

ここに「他者からの評価の薄さ」も加わってくる。

もっと言えば、「自分が自分でする仕事の評価」についても曖昧になってくる。

対象となる仕事の面白さが激減し、自分でも自分の仕事振りに自信も持てず、他者からも称賛されることはない。

このような日々の繰り返し。

その成れの果てが、今の僕である。

「やりがいがある」という自己暗示

もちろん、マネージャーの仕事にやりがいがない訳ではない。

でも、それはどちらかというと「無理やり作り出したもの」「何とかそう思おうとしているもの」に近い性質を帯びたものである。

ある種自分を騙すために、そのような自己暗示をかけているに過ぎない。

純粋な楽しさ、みたいなものはやはりなくなってしまった。

それはそうだろう。

マネージャーの仕事をもう9年もやっているのだ。

目新しいことは何も起きない。

全ては既知のことだ。

予想の範疇のことだ。

でも、それは僕だけでなく、誰にとっても「そういうもの」なのだろう。

小さくても希望は希望

仕事はどうやったってルーティン化していく。

それに抗うのは不可能だ。

ただ、そこに何らかの刺激を入れることは不可能ではないと思う。

もちろん、そのようなささやかな刺激が、日々の鬱屈したものを拭き晴らす程の力を持っている訳ではない。

しかし、そのような小さな光があることで、完全な絶望感に苛まれることも防げると僕は思っている。

それは上記したように、「無理やり捻り出したもの」に過ぎないのかもしれない。

でも、たとえそうであっても、希望は希望だ。

それがあるかないかで、日々の面持ちは大きく変わってくる。

そうやって僕は毎日の延長戦を戦い続けている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

FIRE論はだいぶ普遍的になったようで、特に若い人たちと話をすると、必ずと言っていいほど、「リタイア願望」の話が出てきます。

これは新NISAを契機とした資産運用の必要性の普及みたいなものも関係しているのかもしれません。

でも僕が思うのは、そのような社会って健全じゃないよな、ということです。

ブルシットな仕事が氾濫しているのは、日本だけでなく世界的な現象でしょう。

そして、そこからの離脱としてのFIRE論も理解できない訳ではありません。

ただ、「総リタイア願望」を抱えた世界ってどうなん? とは思ってしまいます。

同じような願望に囚われた僕が言うのも矛盾しているように思うのですが、働くことは本来快の感情を伴うもの(全部とは言っていない)であるはずです。

それが苦役でしかない、そのようにしか捉えられない社会って、やっぱり病んでいるように思われます。

不機嫌そうな満員電車に揺られながら、僕は今日もまた延長戦を戦っています。

本田圭佑ばりに誰か「7分⁉」って長いロスタイムに意義を唱えてくれないものでしょうか?

こんな僕ですが、引き続き読んで頂けたら幸いです。