他人の言うことは程々に

UnsplashEmmanuel Ikwuegbuが撮影した写真

達観してしまったのには訳がある

「達観している」と評されることがある。

それは良い意味でも、悪い意味でも。

まあ言わんとしていることはわかる。

でも、たぶん説明しても伝わらないだろうなとも思っている。

僕がそうなったのには色々と訳がある。

もちろん、元々の性質も関係してはいるだろう。

しかしながら、こうなってしまったのは僕だけのせいではない。

たくさんの経験をしたから(たくさんの嫌なことを味わったから)こうなってしまったのである。

でも、そんなことは他人にはわからない。

ただ、わからなくても色々なことを言ってくるのも事実である。

だから、他者の言うことなんてテキトーに受け流していればいい、と僕は思っている。

どうせわかるはずなんてないのだから。

今日はそんな話である。

それでは始めていこう。

全力は理解されない

非常に不遜な言い方になってしまうかもしれないけれど、僕は会社で全力を出さないようにしている。

というのも、全力を出すと、他者には理解されないということが嫌という程わかったからである。

特に、管理職になってからはそれが顕著であるように感じている。

だから、60%くらいの力で仕事をするようにしている。

全力で向き合わないこと

これは他人の言うことに対しても同様である。

本当に若い時の僕は、他者の言うことに対しても100%で臨んでいた。

でも、100%で臨んだとて、得られるものは多くなく、傷つけられることが殆どだった。

それは僕があまりにも他者に対して無防備だったからでもある。

僕は他者に対して、できるだけ誠実に対応しようと心掛けていたし、それが当たり前のことだとも思っていた。

でも、多くの他人というのは、そんな風に真面目に誠実に他者に向き合うことなんてないのだな、ということが少しずつわかっていった。

それと共に、僕は他者に対して心を閉じ、僕の中ではある種テキトーに対応するようになっていった。

それは僕にとってはあからさまな対応であるから、怒られるのかなと当初は思っていたけれど、そんなことは起こらなかった。

そして、その人だけでなく、他の人も同じような感じであった。

そのような経験を経て、僕は他者に対して「まあこんなもんでいいだろ」という対応をするようになっていった。

期待しない

それは他者へ全く期待しなくなったということを意味する。

そして、相手からの話に対しても全力では向き合わなくなったことを意味する。

結果、「達観している」という評価を得ることになった。

まあ、間違ってはいない。

ただ、僕なりに正確に表現するなら、達観しているのではなく、不感症になっただけなのである。

他人の評価は表面的

仕事をしていると、たくさんの場面で、たくさんの評価をされることになる。

ましてや、管理職ともなれば、360度、あらゆる方向から評価されることになる。

それは間違っているとまでは思わないけれど、まあ表面的だよな、と僕は思っている。

そして、そのような評価になるのをわかった上で、それでも仕方なく行動しているんだよな、ということが全く理解されていないと僕は感じている。

だからこそ、僕が他者を評価する際には、そういうことはやめようと思っている。

もちろん、限界はある。

でも、限界はあるよね、ということを理解した上で評価するのとしないのとでは全然違うと僕は思うのである。

ナンセンスなことばかり

人はわかりやすいイベントに左右される。

理解しやすいものだけを理解しようとする。

ただ、現実というのはそうではない

複雑であり、かつ予測不可能でもある。

そんな中で、判断をしていかなければならない。

事後になってみれば、明らかにそれが間違いとわかるようなものであっても、渦中にあってはそれは判然としないことだってある。

でも、他者というのはその結果だけをもってして評価を行う。

僕からすればナンセンスだなと思うことを、他者は簡単に言ってのけたりする。

また同時に、本来的には指摘しなければならないようなことを指摘せず、そしてその指摘していない自己というものにすら気づかず、他者を評したりもする。

もっと言えば、その人が職務放棄している状態を僕が補完しているにも関わらず、そのことが理解できず、僕が他者に対して寛容ではないという評価を下したりもする。

僕にはよくわからない。

他者の言うことなんてどうでもいい

というか、冒頭にも書いたことだけれど、他者というのはその程度のものなのである。

だから、他者の言うことなんて程々に聞き流しておけばいい。

どうせ理解なんてできないし、そんなことを言ったことすら覚えてなんていないのだから。

もちろん、独りよがりになってはいけないのだけれど、気にし過ぎるのもどうかと僕は思っている。

他人は簡単に手の平を返すものだから。

そして、そのような自覚すらないものだから。

自分を信じよう

そういう意味では、自分の中の判断軸というのは仕事を続ける上で絶対的に必要なものである。

それだけは絶対にブラしてはいけない。

自分を信じられなくなるほど辛いことは他にきっとないはずだから。

他人よりも、自分の内なる声に誠実に。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

本文のようなことを書いた僕ですが、一方で信じるに足る人に対しては変わらずに100%の力で対応を続けています。

そういう意味では、人を見極めながら対応をしているだけ、という当たり前の話なのかもしれません。

僕が達観しているように見えるのは、たぶんその人に対して期待していないからです。

選り好みは悪いことばかりではありません。

気の合う人、信じるに足る人の言うこと(だけ)に耳を傾けていきましょう。