日本経済を元気にしたいぜ

UnsplashBrooke Larkが撮影した写真

ずっと元気がない日本

日本経済が「こんな感じ」になってから、ずいぶんと時間が経つ。

全然元気がない。

というか、元気だった頃の時代を僕はよく知らない。

僕が入社した頃には既に日本は不景気であって、諸先輩方から昔話のように「あの頃は凄かった」という話を聞いて、何だか別世界のことのように受け止めていたことを覚えている。

その状況は今も変わっていない。

僕はその要因の1つとして「マネジメント」に焦点を当てて、このブログを始めることにした。

日本経済の停滞の要因はきっとたくさんある。

その中にはどうしようもできないこと(例えば人口動態など)もある。

でも、マネジメントを変え、働き方を変えるというのはできるのではないか、と僕は考えて、このブログを立ち上げた。

と言っても、道半ばというか、状況は全く変わっていない。

ただ、当初の想いだって全く変わっていない。

僕は単純に日本経済を元気にしたいのだ。

今日はそんな話をしていこうと思っている。

嫌な奴多くね?

陰気さや陰湿さ。

社会で働いていると、そんなことばかり感じる。

皆が皆、「嫌な奴」になっているような感じ。

いや、もしかしたら、日本経済が元気だった頃にも、人々の本質は同じような感じだったのかもしれない(人間の本質というのはそう簡単に変わらないから)。

でも、経済が停滞し、国力が落ちると、その嫌な部分が表面に出てきがちになるように感じている。

今までは隠されていたというか、他の部分でカバーできていた部分が露出し、そこから腐臭が出ている、そんなことを思ってしまう。

裏とか読むの面倒くさい

表と裏。

「裏を読むのが高尚」というような風潮。

表に出ていることはフェイクで、裏にあるものはリアル。

でも、実はその裏にあるものの裏にあるものこそがホンモノ。

そういう「裏の読み合い」みたいなものに疲れてしまっている。

もっと簡単でいいんじゃない?

良いものを良いと言うというか、カラッと評価するというか、そういう単純性(裏表のなさ)みたいなものを僕はいま求めている。

どんぐりの背比べ

これは縮小していく経済の中だからこそ見られる現象なのかもしれない。

重箱の隅をつつくというか、どんぐりの背比べというか、非常に細かい差異の大小をいつまでも競っている(それも陰湿に)ような感覚を僕は持っている。

そして、その差異の大小がこの世の一大事であるかのように吹聴しているというか。

大した差じゃなくね?

というか、どうでもよくね?

そのようなことを大手を振って言えないことも、僕の疲労感に拍車をかけている。

表がないこと

表の不在。

表があるから、裏が映えるのに。

そんなことを思ってしまうのだ。

批判をすることが頭良いみたいな風潮をもうやめたい

一億総ネガティブキャンペーン。

揚げ足取りのオンパレード。

粗探しをするのが、僕たちの民族性のようだ。

確かにそれはそれで面白さはある。

風刺的な笑いは僕の好みでもある。

でも、何というか、もっと単純な馬鹿馬鹿しいものを僕は求めている。

そして、批評性における「ポジティブな側面」をもっと表現していなければいけないのではないか、と思っている。

何かを叩くことがクレバーの証明であることをやめて、何かを称賛することにもう少し意識を向ける必要があるのではないか?

欠点のないものはない

欠点は探せば無限に出てくる。

欠点がないものを出すのは「悪魔の証明」みたいなもので、僕たち人間には不可能である。

そういう意味では、批判というのは万能性の証明とも言える。

何かを批判する自分は、批判されるモノよりもクレバーであり、万能ですらある。

そのような神の立場からモノを言うことができる。

でも、そこに発展性はない。

一時的に溜飲は下がるかもしれないけれど(自己顕示欲は満たされるかもしれないけれど)、何も享受できない。

叩かれた人はそこで委縮してしまうから。

再起不能なくらい、やり込められてしまうから。

カイゼンは不完全

僕はアップデートという考え方が好きだ。

今は不完全でも、漸進していくというか、少しずつ改良されていくという考え方に魅力を感じる。

それは「カイゼン」という、僕ら日本人の長所にもマッチしている。

カイゼンというのは、不完全なものだ。

いつまでも完全になることはない。

でも、それこそがダイナミズムを生み、面白さを育むのでは?

僕はそんな風に思うのだ。

褒めることで、アップデートされるものの恩恵を受けよう

だから、僕たちはそのようなアップデートの最中にあるものをもう少し賞賛すべきなのではないか、と僕は考えている。

欠点にばかり目を向けるのではなく、改善されたものに焦点を当てること。

その改善度合いを評価し、面白がること。

そうやって改善されたものが、ひいては僕たちの社会を豊かに(元気に)することに繋がる。

何かを褒めることで、僕たちはその恩恵に与ることができる。

それはきっとマネジメントという仕事においても同様だ。

「褒め」は無防備。それでも。

たくさんの障害。

たくさんの妨害。

気が滅入ることばかり。

でも、そんな状況でも、何かを褒めることを躊躇ってはいけないのだと僕は思っている。

褒めることは無防備性を纏うことに繋がる。

ただ、たとえそうであっても、それをやめてはいけないのだ、きっと。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

「褒める」ことは無防備性を纏うことになる。

本文中にも書いたことですが、そんなことを思ったりします。

一方、否定することは全能性を装える、というか。

欠点がいつまでもなくならないように、完璧というものも存在しえません。

だからこそ、欠点を突くことは全能感に繋がり、称えることは無防備な状態に人々を陥れます。

「それを少し変えませんか?」

「じゃないと、みんな委縮して、良くなるものを享受できなくなりますよ?」

というのが今日のお話です。

僕たちは僕たち自身の環境を知らず知らずのうちに悪くしていることにもう少し自覚的であるべきです。

改善していこうとする人を称えていきましょう。