部下は駒ではない
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アメリカ型マネジメントへの違和感
マネジメントの話をすると、部下を駒のように使うイメージを持たれている人がそれなりに多くいることを感じる。
そして、それはある種無意識的でもあるケースが多い。
もちろん、ある種の非情さはマネジメントにおいて重要である。
情に訴えたマネジメント(ウェットなマネジメント)はよろしくない、それは僕も同意する。
でも、それがあまりにも露骨になってしまうのもどうか、というのが今日の話である。
また、そこには「アメリカ型マネジメント」への違和感が含まれている。
「ボスの言うことは絶対」というか、「上位者が方向性を定め、下位者はそれに従う」というか、そのようなマネジメントスタイルに対して、「本当に有効なのだろうか?」という疑問を僕はいま持っている。
意味が分からないかもしれないけれど、とりあえず始めていこう。
いつも言っていることと矛盾しているかもしれないけれど、ご容赦を
今日の話はちょっと複雑で、僕は日本における旧来のマネジメントに対して疑問を持っていて、それに対するカウンターの話をいつもしているけれど、そのカウンターがまた逆サイドに寄り過ぎるとそれはそれで結構問題なのではないか、という考えを基に書いていくものである。
そういう意味では、いつも言っていることと矛盾した内容が出てくる可能性が高い。
でも、これは「程度の問題」であって、いつも言うようにマネジメントにおいてはバランスが非常に大事なのである。
天秤をあまり傾け過ぎず、かといって、そのままにもし過ぎない絶妙な塩梅。
それを常に探し、調整し続けることがマネジメントにおいてはとても重要なことである(そういう意味では、マネジメントというのは動的なものだし、動的であるべきだと言える)。
まずはここをご理解頂きたい。
その上で、あまりにも合理的に部下を使おうとする人たちに対する違和感について今日は書いていこうと思っている。
合理的な方向性にシフトすべきであるが…
日本的経営がダメだと言われるようになってから、それなりに長い年月が経った。
その過程の中で、アメリカ型経営に習おう、それを導入しようという考え方が大勢を占めるようになった。
その流れの中にマネジメントというものも含まれている。
そして、マネジメントという言葉を日本語に訳す際、それを導入していく際、「管理的なイメージ」もまた一緒に持たれる(より強く持たれる)ようになったように思う。
マネージャーは「ボス」であり、そのマネージャーが頭脳、それ以外の部下は手足となって働く、それが望ましいマネジメントの姿である、というか。
情に基づいた運営をするのではなく、もっと合理的に考え、その時々で最適なポジションに配置していく、そのような考え方。
それによって、決算期毎に高い成果を出し、その報酬を得る、それがマネージャーや経営者の役割である、というイメージ。
とてもわかりやすく、シンプルで、かつ合理性もある考え方だと思う。
ドライなマネジメントを盾にしてないか?
そして、僕もそのような考え方にシフトすべきなのではないかと思ってマネジメントという仕事をしてきた節もある。
「ウェットなマネジメントはやめて、ドライなマネジメントをすべきだ」
「戦略的に仕事をしていく必要がある」
そのようなことを従来から主張してきたし、今だってそれは変わらない。
でもさ、というのが今日の話である。
あまりにもそちらの方向に行き過ぎていないか、というか、それを金科玉条のようにして、保身に走っているマネージャーが多過ぎないか、という危機感を僕は今持っている。
成果が最優先だとするなら
マネジメントは仕事である。
単なる仕事に過ぎない。
その中で最大限のパフォーマンスを上げるべく、部下を使う。
僕はこのような考え方を否定しない。
それはプロフェッショナルとして当然のスタンスだとすら思う。
でも、その考え方を更に進めていくなら、部下を駒として使うことが最大限のパフォーマンスに本当に繋がるのだろうか、ということも併せて考えていく必要があると僕は思っている。
そして、現在のところ、それは違うのではないか、と僕は考えているのだ。
短期だけでなく中長期的な成果が大事なのでは?
もちろん、短期的な成果というか、緊急時においては部下を駒として使わざるを得ない局面はあると思う。
ただ、高い成果を上げ続ける為には、それだけでは無理だ。
部下の内発的動機というか、部下が仕事に対して自律的に考え、そこに魂のようなものを込めるようにならない限り、持続的な成果は上げられない。
そして、部下が仕事に魂を込めるようになる為には、部下を駒として使うのではなく、その個性を引き出すというか、持ち味を出させるようなマネジメントをする必要がある。
ダイナミズムを
ここで僕がこのブログ立ち上げ当初から言っているサッカーチームのイメージに戻ってくる。
監督は戦略を考え、各ポジションに選手を配置していく。
また、試合の中での動き(戦術)を指示し、その通りに動くよう選手たちに求めていく。
でも、そこから先は選手の領域である。
全ての行動を監督が指示することはできない。
選手がその場その場に応じた最適な動きを取っていく必要がある。
そこにはサイエンスだけでなく、アートも必要となる。
その両方を求めていくのが、マネジメントなのではないか?
僕はそのように考えている。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
静的でなく動的なマネジメント。
僕が思うのはそのようなことです。
その時々で状況がどんどん変わっていく。
それに対応する為にはアドリブがどうやったって必要です。
でも、部下を駒として使おうとすると、「即応」できる能力が育ちません。
ただ、それこそが勝敗を分けたりもします。
ベースとしてのサイエンスと、そこから先のアート。
そのバランスをイメージしながら、マネジメントという仕事をやっていきましょう。