評価も実力も

UnsplashMatin Keivanlooが撮影した写真

評価と実力は乖離するもの。でも…

「評価は大事。でも、実力も大事」

これが今日言いたいことの全てである。

なので、ここから先は全て蛇足となる。

お忙しい方は、ここで是非スワイプして、他の何か有効なものにお時間を使って頂きたい。

目新しいことは何も出てこないから。

ただ、本当にそう思うのだ。

仕事をしていく上で、それもそれなりに好調に仕事をしていく上では、評価も大事だけれど、それに見合った実力を付けていく必要がある。

もちろん、評価と実力というのはある程度乖離するものである。

実力以上に評価される時もあるし、その逆もある。

でも、その乖離を一定の範囲内に収めるよう努力を続けていくと、それも評価側で調整するのではなく、淡々と実力を付けるようにしていると、仕事というのは楽しくなり易い。

今日はそんな話である。

それでは始めていこう。

「評価されない実力に意味なんてある?」という考え方への違和感

「評価の透明性向上(可視化)によって、実力を軽視する流れがあるのではないか?」

そんなことを思う時がある。

特に若手の育成に際しては、本人もあまり理解していないようなので、この両者のバランスを取ることが大事だと知ってもらうことは重要であるように思っている。

というか、ちょっと前まではこんなことは言わなくても、暗黙の了解(合意事項)であったはずだ。

「評価一辺倒ではなく、それに見合った実力を付ける必要がある」

そのような考え方。

ただ、どうもそれは現在においては一般的ではなくなってきているように感じている。

「評価されない実力なんて意味ある?」

ザックリと言ってしまえば、そのように考えている人が増えているように思う。

実力がない→仕事がつまらなくなる→評価も凡庸になる

僕はこれに異を唱えたい。

というか、意味は確かにないのかもしれないとは思う。

でも、実力がないと仕事がつまらなくなる。

仕事がつまらなくなると、結局のところ評価というのは凡庸なものに留まる。

そんな風に思うのである。

内発的動機の重要性

仕事において、内発的動機というのはとても大事なものである。

もちろん、内発的動機だけで仕事を続けていけるほど世の中というのは甘くない。

でも、そこに何らかの面白さ(興奮する要素)がなければ、その仕事をより良くしていこうという意思は働きづらい。

そして、仕事をより良くしていこうと思わなければ、面白い仕事が舞い込む確率は低下する。

だから、実力が必要なのである。

卵が先か鶏が先か

ただ、このような話は視認しづらい。

それも短期的にはとても分かりづらい。

評価されるから面白い仕事が舞い込んでいるように見えるのだ。

そして、その面白い仕事というのは評価されやすい種類のものであることが多い。

だから、皆「評価」の方に飛びつく。

最近の評価というのは、透明性の向上(例えばKPIを参照値とするなど)により、分かりやすく目指しやすいものになっているから。

また、評価する側も、その数値に基づいて順番を付ければ文句を言われることがないから。

こうして「評価される能力に長けた人材」が続出するようになる。

昨日今日始まった話ではないけれど…

もちろん、このような傾向は昔から存在するものではある。

話の内容自体は特に目新しいものではない。

ただ、そこにある実力との乖離は以前に比べると格段に大きくなっているように僕は感じている。

評価は高いが、実力のほどは?

僕は時々、当社で「優秀」と評されている若手社員と話をする機会がある。

確かにそのように評価される理由はよくわかる。

それくらい彼(彼女)らとの会話は、他の社員とは一線を画している。

受け答えもしっかりしているし、こちらの感性を揺さぶるような刺激もある。

それは事実だ。

でも、そこに実力があるのかどうかと問われるなら、そこまででもないのではないか、という印象を持たざるを得ない。

確かに、相対的には実力があると言えるのかもしれない。

同じくらいの年次(職階)の中では、確かに優秀と言われるのはわかる気もする。

ただ、それが圧倒的であるか(絶対値ではどうか)と問われると、そんなことは全く思わない。

少なくとも、評価に実力が追い付いていることはない。

それが僕はとても悲しい。

順応(過剰適応)の成れの果て

もちろん、このような傾向は彼(彼女)ら(だけ)のせいではない。

会社(社会?)の方向性としてそのように進んできて、そこに適切に順応した結果だと思うから。

でも、僕にはそれがやや過剰な適応に見える。

そういう意味においては、彼(彼女)らは優秀であると言えるのだろう。

ただ、つまらない。

というか、それだけではないことをたぶん彼(彼女)らに教えなくてはならない。

僕はそう思うのである。

「外的な尺度に適切に合わせること=実力」じゃないぜ?

たくさんの秀才を育てる人材育成。

それは会社(社会?)の方向性として決して間違っているとは言えない。

ただ、それによって傑物が出てくる可能性は低下しているようにも思う。

何らかの外的な尺度に合わせに行く能力の高さ。

その巧拙を「評価」とするなら、そんな尺度など度外視するようなものを僕は「実力」と呼びたい。

少なくとも、この何年か、「こいつは凄いな」と思う若手社員と出会うことはなかった。

何だかつまらない奴ばかり。

それが偽りなき僕の実感である。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

圧倒的なストライカーの不在。

日本サッカー界における永遠の課題です。

そういう意味においても、我々の社会というのは、(結果として)傑物を望んでいない、と言えるのかもしれません。

たくさんの戦術。

それも重要。

でも、それらを無効化してしまうだけの圧倒的な個性も欲しい。

難しいことは百も承知ですが、実力がある部下を育てていきましょう。