実力を評価する為には実力が必要だ

UnsplashLance Changが撮影した写真

成果主義という言葉に纏わりつく負のイメージ

成果主義と実力主義。

そんなことを考えている。

僕は従来から成果主義を望ましいものだと主張しているけれど、日本社会における成果主義には失敗の歴史があって、ポジティブなイメージを持ちにくいのも事実である。

そしてその流れは変わりそうもない。

昨今の賃金改定(春闘)の様子を見ると、会社によってはボーナスの比率を減らして定例賃金の比率を上げるなんて傾向も見られるし(毎月の賃金の変動を平準化するのが狙いのようだ)、「給与(処遇)」に対する考え方はどちらかというと保守的な方向に進んでいるように僕には思える(もちろん、そのベースとなる考え方に成果主義が使われているのかもしれないので何とも言えないが…)。

成果主義には「成果を上げたもん勝ち」みたいなイメージが纏わりついていて(いるような気がして)、確かにそれは僕が言いたいこととはちょっと違うなとも思っている。

大事なことは「きちんと仕事をしている人が適切に報われること」である。

もちろん、「完全に」とはいかないだろう。

ある程度のレンジの中で、まずまずの納得感が得られるような制度設計をすること。

そしてそこには「実力」というものが大事なのではないかと僕は考えている。

そして、その実力を評価する為には、評価する側も実力を持っていなければならないということも。

意味が分からないかもしれないけれど、今日はそんな話である。

それでは始めていこう。

公平とは?

人の評価は難しい。

マネジメントという仕事をやっていてつくづく感じることである。

そして、それを難しくしている要因として、評価制度に問題があるのではないかとも考えている。

表現が難しいけれど、「レースが始まった時点で、ある程度ゴールが見えている状態の中で仕事をしている」そんなことを感じてしまう。

これは「公平性」に関する問題である。

例えば、僕が所属している「営業」という領域においては、成果を上げやすい取引先を持っているかそうでないかでは、その難易度は大きく変わる。

でも、その成果を上げやすい取引先を担当していることにはそこまで実力は問われていない。

そこに特に何か理由がある訳ではない。

それが問題なのではないかと僕は考えている。

成果主義に実力主義の意味合いを

自分で開拓した先ならいざ知らず、前任者から引き継いだ担当者がその成果をただ享受するような状況では、成果主義に疑問符が付くのはある種当然であるとも言える。

「そもそもの前提が違うのに、同じ物差しで測られたらたまったものではない」

それがメンバー達の言い分だろう。

そして、その言い分には理があると僕も考えている。

となると、成果主義には、それなりに実力主義の意味合いを付け加える必要がある訳だ。

実力は視認しづらい

ただ、ここで1つ問題が生じる。

「実力」というものは可視化しづらいものであるという問題だ。

何をもって実力とするのか?

それがとても曖昧なものになってしまう。

だからその実力に基づいた「現れ」としての成果を評価するべきだ。

それが成果主義なのだと思う。

でも、(繰り返しになるが)もたらされた成果にはその背景となる状況が視認しづらい部分があり、それが「公平性」への疑義に繋がる。

だったら、そこに実力を評価するという目を入れるべきなのでは?

公平性を担保するような、実力を持った評価者が必要なのでは?

そんなことを思うのだ。

言語化は難しくても、わからないことはない

確かに、実力は可視化しづらい。

でも、営業という仕事をしている人間であれば、ちょっと会話をすればその実力の程度はわかるはずだと僕は思う。

言語化は難しいけれど、武道で言う手合わせのような感じで、向かい合えば相手の実力なんてものは大体把握できる。

ただ、それができるのは、ある程度の実力を持ったものだけである。

だったら、評価者にもその実力を求めるべきなのでは?

そんなことを思ってしまう。

納得感の薄い成果主義の氾濫

非常に大雑把な言い方で恐縮であるが、実力のない評価者による成果評価がたくさん行われた結果、その評価に納得できない人が増えているように僕は感じている。

なぜアイツがあんなに高い評価なのか?

そのような疑問がそこかしこにあるような気がしている。

もちろん、それは人が人を評価する以上、完全になくすことは出来ないだろう。

ただその「程度」は薄められるのではないか?

そして、その為には、評価する側にもきちんと実力を求める必要があるのではないか?

そんなことを思ってしまう。

正しさ。平等さ。オーケー、オーケー。でも、何だか馬鹿らしいな。

「コレクトネス」が重んじられる世の中において、個人をランク分けしたり格付けしたりするのはタブーというか、いけないことであるように捉えられているような気がしている。

でも、それなくして、公平性というのは担保されないのでは? と僕は考えている。

平等は確かに尊いのかもしれない。

ただ、そこに重きを置きすぎると、真面目にやるのが馬鹿らしく思えてしまう社会が到来してしまう。

そういう意味においても、もう少し実力が問われる社会になった方がいいのではないか(たとえそれがやや残酷なものをもたらすとしても)、と僕は考えている。

何だか変な話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

馬鹿らしさと倦怠感。

僕が感じる日本社会の症状です。

その処方箋としての実力主義。

それはいかがでしょうか? というのが今日のお話です。

もちろん、実力なんてものは主観的に過ぎません。

でも、客観性ばかりを求めすぎると、何だかつまらない人ばかりが増えるような気もしています。

実力を測定するスカウターの発明を僕は心待ちにしています。

クソみたいな奴らの化けの皮を剥いでいきましょう。