勝率を意識しない

UnsplashVictor Freitasが撮影した写真

イミテーション・イミテーション

再現性とか実現可能性とか、そういった論調に食傷気味である。

まあ確かに言わんとしていることはわかる。

でも、それってつまらなくね?

そう思ってしまうのだ。

もう少し丁寧な言葉遣いで言うなら、再現性があるということは模倣可能ということであり、そこで(例えばライバルとの)差異を作ることはできない。

AIによって代替可能ですらあり得る。

そんなことばかりやっていては高い成果を上げることはできない。

僕は最近「勝率」というものは捨ててもいいのではないか、と考え始めている。

もちろん、勝率を上げることは目指すべきだ。

ただ、勝率を意識し過ぎると、大きな勝ちを得るチャンスを見過ごす可能性がある。

そして、「損切り」というか、「傷が浅い内の撤退」が難しくなる。

今日はそんな話である。

それでは始めていこう。

再現可能性と案件の小粒化

KPIであるとか、エビデンスであるとか、そういうものが太字で取り上げられ始めてから、小粒の案件が異常に増え、大型案件が減ったな、そのように感じている。

みな目先の案件ばかりを追っている。

そして、手堅く「勝ち」を得ようとしている。

そうやって「勝率」を上げ、「自分は安定して勝つことができる」「勝ちを再現することができる者である」ということをアピールしようとしている、そんな風に感じる。

まあ気持ちはわからないことはない。

確かにマネジメントの世界において、「再現可能性」は重要であるから。

でも、再現可能性ばかりを追うと、どうしても「失敗」が怖くなる。

というか、失敗を恐れているから、再現可能性を追っているのかもしれない。

みな同じような動き

これは「卵が先か鶏が先か」というような話で、多くのビジネスパーソンが失敗することができないから、再現性の高い物事ばかりを追っているのか再現性の高い物事ばかりを追っているから、失敗することが少なくなっているのか(もしくはその両者同時か)、それは僕にはよくわからない。

ただ、どうにもその結果として、「模倣型マネジメント」みたいなものが流行り過ぎているように感じるのだ。

僕からすると、みな同じようなことをやっているし、やろうとしている。

順張りオンリーというか、逆張りをやらないというか。

それによって、ポイントを稼ぎ、コツコツと勝ちを積み上げていくような動き。

確かに悪くはない。

でも、とてもつまらない。

そんな風に思ってしまうのだ。

揚げ足取り文化とそれに対する自己防衛?

これは僕らの間に蔓延する「揚げ足取り文化」みたいなものが影響しているのかもしれない。

失敗した者を徹底的に叩き、二度と復活できないようにするあの雰囲気。

そして、その失敗を必要以上にあげつらうあの感じ。

それに対するカウンターとして、自己防衛の手段として、勝ちを積み重ねようとしているのかもしれない。

プットの売り

やや難しい話にはなるが、これは投資の世界で言うなら「プットオプションの売り」のような動きである。

詳しくはグーグルなりChatGPTに聞いて頂けたらと思うけれど、これによって売り手はコツコツとオプション料を得ることができる。

今回のテーマで言うなら、勝ちを積み上げる(勝率を上げる)ことができる。

でも、大きなショックが訪れた場合、その損失は無限に拡大する。

多くの人の動きはそのように思えてしまうのだ。

無謬性の原則

日本社会は損失を想定しない社会である。

というか、損失を想定することをタブー視する社会である。

僕はそんな風に感じている。

事前に失敗することを想定することは弱虫のやることで、そのような弱気だから失敗を呼び寄せるのだという考え方。

僕からすればただの精神論。

それが罷り通っているのが日本である。

大きなリスクには目を瞑り(というか盲目的になり)、オプション料のような小銭を稼ぐ人が偉いというような考え方が支配的である。

そして、実際に大きなリスクが生じた際には、責任を取ろうとする者は誰一人おらず何かの「天災」のように「仕方がなかった」「想定外だった」というような事ばかりを言っている。

いつしかそれも忘れ去られ、教訓は活かされず、同じような日々を送り、また同じような大きな失敗をする。

敗戦も、原発事故も、コロナ対応も、みなそのように僕には思える。

大きく負ける国

「勝率」に支配された国。

というか、「失敗してはいけない」国。

失敗ができないと、損切りが遅れる。

損切りが遅れると、再起不能になる。

「再起不能なまでに失敗しないこと」が大事

大事なことは、失敗しないことではなく、「再起不能なまでに失敗しないこと」である。

そして、たまにでいいから大勝ちするような戦略を取ることである。

日本企業の体たらく。

それもきっと「勝率」が関係している。

勝率が高いエリートたち

日本におけるエリートの多くは、「勝率」がきっと高いのだろう。

また、「勝ち数」も多いのだろう。

でも、「勝った額」はどうなのだろうか?

1勝9敗でも、大勝ちすれば(そしてその負けが小さければ)、別に問題ないのでは?

大局観がない国

もちろん、日銭が不要だとは言わない。

負けないに越したことはない。

でもさ、というのが今日の話である。

大局観?

それとも目先?

何だか暗い話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

個人的には今日の話は割と現代日本社会の縮図のようなことを書けたのではないかと思っています(文章は相変わらず稚拙ではありますが…)。

本文を書いている時に僕の頭に浮かんでいたのは、タレブのことです。

彼は「ブラックスワン」のような危機に対応する為の「バーベル戦略の有効性」について書いていますが、それは投資の世界だけでなく、キャリアにおいても重要です。

タレブの比喩を借りると、それは「90%会計士、10%ロックスターのような生き方」のことを指します(アルバムの制作費は有限であり大した額ではないが、当たれば物凄くデカい)。

本文にも書きましたが、大事なことは「再起不能なまでに損失を拡大させないこと(ダウンサイドのリスクを有限化すること)」であり、同時に「大化けするかもしれないアップサイドのリスクは取っておくこと(リターンの無限化)」です。

勝率だけに囚われず、大勝ち出来るような仕組みを入れていきましょう。