保身ムーブの上司たち

あんまりでは?
年末に発表される「今年の漢字」のように、現代日本社会を切り取る漢字は何かと考えた時、僕の頭に浮かんだのは「保身」という二文字であった。
あらゆる場面で見られるこの動き。
それに僕は辟易としている。
もちろん、それは人間らしいと言われれば人間らしい動きではある。
皆自分が一番大事、それは否定できないだろう。
でも、あまりにもさ、ということが多すぎやしないか?
自分の身を守る為なら何をやってもいいのか?
「人として」最低限譲ってはいけないラインが存在する、そう僕は思っている。
でも、そのラインを簡単に超えてしまうたくさんの人たち。
いとも簡単に人に罪を擦り付けたり、押し屋のごとく線路に叩き落したり。
そんな上司ばかり。
今日はそんな愚痴めいた話だ。
それでは始めていこう。
保身ムーブする奴しかおらん
昔の上司と今の上司。
僕が入社した頃には、もちろん保身ムーブの上司もいたけれど、そうじゃない上司もそれなりの割合で存在していたように思う。
比率的には前者の方が多かったかもしれないけれど、後者も滅茶苦茶少ないということもなく、7:3とか8:2とか、それくらいの割合であったように感じている。
翻って現在。
10:0だ。
これを書いて、自分でも「大げさすぎやしないか?」とも思ったけれど、たぶん大げさではない。
9:1と訂正するほど、後者の人の割合は多くない。
それが僕の実感である。
もう少し正確に書くなら、9.5:0.5とか、9.8:0.2とか、そのくらいの比率。
正に絶滅危惧種的な確率。
それが現代日本(というか我が社だけか?)である。
ぜんぶ成果主義のせい
たぶん平成という時代のどこか途中で、後者のような上司は全て消え去ったのだろう。
その理由はわからない。
でも、何となくは想像し得る。
それは「成果主義」のせいだ。
というか、もう少し正確に書くなら、「歪曲化された成果主義」のせいなのではないか、と僕は考えている。
歪曲化された成果主義
僕は成果主義を信奉している。
そんな僕が成果主義が原因なのではないかと書いている。
「矛盾があるのではないか?」そう思う方もいると思う。
それは間違っていない。
「成果主義が数値化の罠に陥った結果、わかり易く得点を取ろうとする小物ムーブが大勢となり、その結果現在のような状況が生まれてしまった」
そんな風に僕は考えている。
それが上記した「歪曲化された成果主義」という意味だ。
在任期間しか頭にない人たち
決算内容やそこに記載するKPIのようなものを飾り立てることだけに重点が置かれた数々の動き。
それが長期的にどのような意味を持つのかなんてことが全て忘却されたムーブ。
「自分の在任期間に問題が起きなければよい」と考える人たちで埋め尽くされた現状。
政官財みんなそんな感じだろう?
成果主義と実力主義
僕は成果主義を信奉している。
でも、最近は成果主義と書くと、上記のような動きを肯定しているのではないかと自分自身で思うようになってきたので、その表現方法を改めた方がいいのではないかと考え始めている。
僕の成果主義のイメージは実力主義に近い。
成果主義が形式主義に成り下がってしまっている現代日本において、成果主義を主張することは僕の主旨に反する、そんな風に感じている。
数値化の罠
大事なのは実力だ。
でも、実力というものは可視化できない。
だから成果でそれを代替すべきなのだ。
ただ、成果というものを数値で表現しようとすると、数値化の罠に陥ってしまう可能性が高まる。
数値化の罠というのは、以前僕がこのブログにも書いたことで、数値を示されると、人間は「相関関係を因果関係と思ってしまう」ことを指す。
数値というのは、それだけでは因果関係を示している訳ではない。
ただの「相関」を示しているに過ぎない。
でも、僕たちはそれを「因果」だと勘違いしてしまいがちだ。
数値は状態であり因果ではない
データ(数値)というのは、「状態」であって、ある意味では無味無臭のものである。
それを解釈するところに人間が介在する意味がある。
でも、エセ成果主義者たちはこれを逆手に取り、数値を因果であるかのように扱う。
ただのデータに過ぎないものを、自分の都合の良いように切り取り、さも自分が手柄を立てたかのように(そして別の誰かが失敗したかのように)表現する。
また、それをその上司も鵜呑みにする。
というか、その方が自分にとっても都合がいいから、見て見ぬふりをする。
結果、中身のない、空っぽな人たちが上司の大半となる。
エビデンス・エビデンス・エビデンス
エビデンス・ベースド・マネジメント。
それを金科玉条のように扱う現代社会。
もちろん、エビデンスは大事だ。
でも、エビデンスはそれだけでは効力を持たない。
味付け、によってエビデンスは左右される。
それに僕たちはもう少し自覚的であるべきなのではないか?
進撃の巨人
保身ムーブに長けた上司たちは、エビデンスを操り、堅牢な城壁の中で安穏と暮らしている。
正義は簡単に悪へと転じ、人々は疑心暗鬼になり、互いが互いを中傷し合っている。
たぶん必要なのはその壁をぶち壊すだけの圧倒的な力なのだ。
何だか進撃の巨人みたいな話になってきたけれど、それは外側からだけじゃなく、内側にも必要なのではないか?
僕はそんなことを考えている。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
保身がお得な社会。
それって健全ではないのでは?
僕はそんな風に考えています。
でも、どこを見ても、保身ムーブする人ばかりです。
なんでこんなに貧乏くさい国になってしまったのでしょうか?
貧乏と貧乏くささは異なります。
貧乏でもいいから、貧乏くささは勘弁頂きたい。
それが僕の願いです。
武士は食わねど高楊枝。
せめて人間らしさは失わずに仕事をしていきましょう。