単純化し過ぎない

UnsplashIsabella Fischerが撮影した写真

単純化によって失われるものがある

「物事は簡潔に、わかり易く」

それが一般的な話である。

でも、マネジメントにおいては必ずしもそうではないのではないかと考えている。

もしかしたら、あまり単純化し過ぎず、複雑な事象は複雑なまま扱った方がかえって上手くいくような気がしている。

これはこのように文字で書くとピンと来ない類の話かもしれない。

「単純でわかり易い方がいいじゃないか!」そんな声が聞こえてくる。

それもわかる。

ただ、単純なもの、わかり易いもの、には「切り取り」が発生している。

それによって、失われるものがある。

そして、その失われるものの中にこそ、マネジメントにおいて重要な物事が含まれている。

何だか意味がわからないと思うけれど、今日はそんな話をしていこうと考えている。

それでは始めていこう。

「結論」は単純化されたもの

ここ最近「マネジメントは過程が重要である」ということを言い続けているような気がしている。

そして、今日もその話を違う角度から言い換えたものに過ぎないのかもしれない。

例えば、「結論」というものは、ある種単純化されたものであるとも言える。

色々な物事があり、その間にたくさんの議論が挟まって、様々な利害が交錯して、出来上がったのが「結論」である。

マネージャーはこの「結論」を部下に伝えることが多い。

それはまた望ましいことであるともされている。

「余計な過程は不要であり、決まったことだけを伝えればいい」

「その内容はできるだけ平易でわかり易いものが望ましい」

そのような考え方。

これは時代を問わず、普遍的とも言える話なのかもしれない。

でも、僕はこれに(少しだけ)異を唱えたい。

「複雑なものは複雑なまま提示した方が、かえってすんなり伝わる(ことがある)」と。

動的なものと静的なもの

「結論」の話に戻る。

「結論」だけを伝えないとするなら、それは同時に「過程」を伝えることを意味する。

そして、「過程」には様々な雑味が含まれている。

ある種知らなくていいようなこと。

ただ、そこには「流れ」がある。

どのような議論が出たのか、反対意見はどのようなものだったのか、どのくらい難航し、どのくらいの時間が掛かったのか、などといった「流れ」。

それは「結論」と違い、「動的なもの」である。

そして、僕はそのような「動的なもの」であることが人を腹落ちさせる為には重要なことなのではないか、と考えている。

というのも、最近は「静的なもの」なものが溢れているように感じるからだ。

形が整ったものは理解しやすい?

単純化というのは「切り取り」である、そのようなことを冒頭に書いた。

そして、それは望ましいものだと捉えられている、とも。

たくさんのいらないものが取り除かれて、形が整った状態、それが「静的なもの」である。

それは変化しない

形が定まったものである。

だからこそ、人はそれを理解しやすいと感じる。

解釈の違いも生まれづらい。

結果として、(例えば)指示が均等に伝わるというイメージが生まれる。

確かに、静的なものには、幅や余白がない(少ない)。

だからこそ、そこからはみ出した動きを抑制できる、そのように思うのだろう。

でも、本当にそうなのだろうか?

物語の読み方

僕は物事を理解するには、文脈が重要であると考えている。

もう少し大袈裟に言うなら、物語が必要であると考えている。

「昔々」と枕詞を付けるまでもなく、僕たちは色々な難しい物事を物語という形を通して理解する(これは例えば小説をイメージして頂けるとわかり易いかもしれない)

そこには時代背景や登場人物の価値観、物事の変遷、そのようなことが盛り込まれている。

そして、その物語を理解するということは、結論を理解するということとは異なるはずだ。

確かに子供向けの物語はそれに近いかもしれない。

「お姫様は幸せに暮らしました」

そのようなことが重要視されているような気がしないでもない。

でも、本当に大切なことは、その道中にある。

「どのような苦難があって、お姫様は幸せに暮らせるようになったのか」

それを僕たちは物語を読みながら、同時点で体験(追体験)していく。

そこで見る景色、そこで思うこと、それが重要なのではないか?

知識としての物語

これを例えば単純化したとする。

例えば「10分で要約!」とか「ファスト映画」とか「ショート動画」とかそのようなものである。

それで物語を理解したと言えるのだろうか?

確かに結論はわかるかもしれない。

また、あらすじも知ることはできるだろう。

でも、それは物語を受容することと同義ではないだろう?

余白のないものは解釈の余地を生む

「余白のないものは、解釈の違いが生まれにくい」という考え方は間違っている。

そこには文脈や物語がないから、かえってそこに解釈の余地が生まれる。

なぜそのようなことになったのだろうか、という不信感が生じる。

だから、多少の大変さはあっても、複雑なものを複雑なまま提示することが必要なのだ。

過程を含めて、そこにある物語そのものを提示すべきなのだ。

それはある種部下を信じることとも言える。

それができれば、「指示待ち部下」の出現もある程度は抑制できるはずだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

人間のAI化。

検索可能化。

そんなことを考えています。

ネットに載せられるものを尊び、それに近づいていく傾向。

でも、大事なものはそこにないものなのでは?

例えば、物語のあらすじはネットに掲載可能であり、検索可能でしょう(ChatGPT然り)。

ただ、それと物語を読む体験は大きく異なります。

多くの人達は、物語を知ること物語を読むことと捉えています。

それは検索すれば(ChatGPTに聞けば)、すぐに手に入ります。

でも、それと物語を体験することは大きく異なります。

大事なことは、その間に「何を思うか」です。

そして、それを潜り抜けた後に「何をしたいか」です。

そこに個性が生まれるのでは?

削ぎ落したものに滋味はありません。

苦みもえぐみも味わっていきましょう。