時には課長を休んでみては?

UnsplashAleksandar Cvetanovicが撮影した写真

きちんとしていたくない時だってある

「課長は課長で居続けなければならない」

文字に起こすと変な言葉である。

でも、実際のところ、毎日課長で居続けるのは実は結構大変なことである。

ただ、それに誰も気付かないし、当然ながら気遣いなんてしてくれない。

課長だって人間である。

きちんとしてたくない(できない)時だってある。

しかしながら、管理職という仕事柄、きちんとしていることを常に求め続けられる。

何か間違っていることがあれば、適切にそれを正し続けなければならないのが課長という仕事である。

でも、そのような「ツッコミ」だけでなく、「ボケたい」時だってある。

そんな時は課長業というものを休んでみてもいいのでは?

今日はそんな話である。

それでは始めていこう。

正しいことを言い続けることは単純に面白くない

人間味非人間味

管理職という仕事では、特に後者の部分を求められることが多いと感じている。

「非情」というと言葉が強いかもしれないけれど、情に流されず、適切な判断を行っていくこと、それが管理職という仕事には求められる。

その中には「うーん…」というような内容の事柄も含まれている。

でも、それだって的確に遂行しなければならない。

ただ、そのようなことが続くと、流石に嫌気がさしてくることがある。

毎日毎日、間違いを訂正し続けるような仕事。

正しいことを言い続ける仕事。

単純に面白くないのだ。

Fuck off 品行方正!

ましてや、僕は営業のプレイヤーだった人間である。

そんな奴がじっとしていられるわけがない。

でも、日々はそこにある

同じような仕事を同じように遂行しなければならない。

もうウンザリだ。

それなら、ちょっと課長を休んでみてもいいのではないか?

それが今日のテーマである。

収束ではなく発散を

例えば何らかの議論が行われているとする。

部下同士の話し合いの中で、喧々諤々、色々な話が出たとする。

それを取りまとめるのが一般的には課長の仕事である(と言われている)。

それを時にはかき乱してみては?

というか、纏める方向に持っていくのではなく、発散させる方向に持っていってみては?

僕が思う課長を休むというのはそういうイメージである。

時には泥まみれに

別の例えで言うなら、チームのメンバーと公園に出掛けたとする(これはあくまでも比喩だ)。

メンバー達は各々の場所で好き勝手遊び始める。

それを見守るのが課長の仕事である。

ケガがないかとか、ケンカしていないかとか、遠くに行き過ぎていないかとか。

それを時にはやめてみる。

一緒になって泥んこ遊びをしてみる。

むしろ一番楽しんじゃったりする。

そういうことも必要であると思うのだ。

プレマネではなく

これは「プレイングマネージャー」とはちょっと違う。

僕が考える「課長を休む」というのは、「プレイングマネージャーになる」ことではない。

微妙なニュアンスではある。

でも、プレイングマネージャーはただ「いいとこどり」をしているだけであって、また「課長」というものを背負いながらやっているような感じがするので、それとは違うのだ。

課長自体をやめてしまうというか、その枠を取っ払うというか、そういう感じが大事なのではないかと思うのである。

イメージとしては、「力を開放する」という感じに近いかもしれない。

力の開放

僕は営業課の課長をしているので、メンバーは一癖も二癖もあるような奴ばかりである。

「どんなもんじゃい!」「なんぼのもんじゃい!」というのが、彼(彼女)らの上司に対する基本スタンスである。

そんな時に課長という立場や役職は何の役にも立たない。

実力こそが彼(彼女)らが従うかどうかを決める尺度である。

それをちょっとだけ見せる。

普段は課長という枠の中で仕事をしているので、その実力を見せる機会はあまりないのだけれど、それをふとした瞬間に開放する。

自分に課せられている重り(ギプス?)のようなものを外す。

そして、軽やかに彼(彼女)らとの力の差を見せつける。

それが終わったら、静かにまた重りを付ける。

そういうことが日々の運営においては大事なのである。

個人としての発言を

また、これは「正しさ」みたいなものの伝え方にも関係してくる。

「課長」という立場で、僕たちは物事を言わなければならない場面がたくさんある。

それは必ずしも僕個人の意見とは同じではない。

立場上、そう言わなければならないから言っているに過ぎない。

でも、そればかりやっていると、言葉が部下に浸透しなくなってしまう。

だから時には課長を休み、自分の言葉で話をするようにする。

それは個人としての発言となる。

それを曖昧にせず、明確にしながら話をすること。

それが大事だと思うのだ。

既成の正しさからの逃れ

時に「管理職」という肩書を降ろすこと。

肩書に頼らずに、甘えずに、個人として厳しさを引き受けること。

それは確かにリスクではある。

「組織人としていかがなものか」

そういうご批判もあるだろう。

でも、それによって得るものも相応にある。

というか、それをやることによってしか得られないものがある。

既成の「正しさ」から離れ、自分なりの「正しさ」を開放すること。

それが僕が考える課長を休むという意味である。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

本文では上手く表現できませんでしたが、「シャビ・アロンソが練習中に現役の選手たちよりも上手いパスを出す」というのが、僕のイメージには近いかもしれません。

もちろん、監督業(マネジメント)は我々の本業ですし、それを中心に仕事すべきです(シャビ・アロンソは監督としても超一流です)。

でも、時にはそこから離れ、元々持っている力を発揮したり、「わからせたり」する必要があるのかなとも思っています。

若手を中心に「勘違いした奴」がそれなりに多くいます。

そいつらに「正しいこと」を言っても通じません。

そういう場合には「拳でわからせる」ことも必要です。

課長というギプスを時には脱ぎ捨てて、自由に踊っていきましょう。