自己決定的なマネジメントを

UnsplashAbsolutVisionが撮影した写真

「管理職罰ゲーム論」を越える為に

幸福とは何か?

また大風呂敷を広げた問いから文章を始めてみる。

これは「管理職は罰ゲーム」という言説へのカウンターを考えるということでもある。

どうやったら管理職の罰ゲーム加減を減らすことができるのか?

そんなことをずっと考えている。

例えば、給料がメチャクチャ上がったとしたら、管理職は罰ゲームではなくなるのだろうか?

そうではないと思う。

もちろん、今よりは納得感は強まるだろうとは思う。

「これだけ貰ってるし、仕方がないよな」と。

でも、だからと言って、管理職という仕事が罰ゲームであるという感覚は変わらないだろう。

そんなことを考えながら、僕の頭に浮かんだのは、「自己決定」という言葉であった。

管理職が罰ゲームであるのは、自分でコントロールできる要素が少なく、他者(外部)に振り回され続けられ、それも内容的に極めて理不尽であるからなのではないか?

それが自己決定できるとしたら?

もしくは自己決定できる領域が広がるとしたら?

もう少し管理職という仕事は楽しく(もしくは幸福に)なるような気がしている。

今日はそんな試論である。

それでは始めていこう。

ニーバーの祈り

人生には変えられること変えられないことがある。

それは仕事でも同じだ。

僕はカート・ヴォネガットという作家が昔から好きで、その中に出てくるニーバーの祈りという考え方を生きる指針としている(元々はラインホルド・ニーバーという人の言葉らしい)。

「神よ、願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ」(カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』伊藤典夫訳、早川書房(ハヤカワ文庫SF)、1978年)

「認知」と「行動」は変えられる

変えられないことをいくら嘆いていても仕方がない。

僕たちにできることは変えられることを変えることである。

では、変えられることとは何なのか?

それは「受け止め方」「何をするか」である。

もう少しきちんとした言葉に直すなら、「認知」「行動」である。

物事の受け止め方は僕たちがある程度自己決定できる。

もちろん、これは「無理やりそう思え」ということではない。

また、そこから生じる感情まではコントロールできない。

よく「ポジティブな気持ちになりましょう!」なんてことを簡単に言う人がいるけれど、そんなことは不可能であり、欺瞞ですらあると僕は思っている。

「ポジティブでいると幸福になる」なんていう考え方は僕からすれば狂気じみてすらいる。

一方で、ネガティブになり過ぎるのもまた違う。

認知と感情は直結しやすいものであるとは思うものの、その回路を出来るだけ分けるように心掛ける。

世界の捉え方を客観視する

認知というのは捉え方である。

それは世界の見方とも言える。

それを客観視する(感情に直結させるのではなく)。

「ああ、自分は世界をこのように捉えているのか」と。

それは良いとか悪いとかではなく、フラットなものだ。

そのようにまず世界を受け止める。

その中で変えられるものと変えられないものを選別する。

そして、変えられるものを変えるべく行動するのだ。

セリグマンの犬

これを管理職という仕事に置き換えてみる。

「管理職は罰ゲーム」と言われるように、管理職の仕事の多くは変えられないものである。

でも、だからと言って、全部が全部変えられないものでもない。

変えられるものは確実にあるし、もしかしたら認知の歪みによって、変えられないと思い込んでいるだけのものが相応にあるかもしれない。

これは学習性無力感とも関連している。

身動きできない状態の犬に電気ショックを何度も与えると、どのような努力をしても苦痛を回避することは出来ないと学習してしまい、電気ショックを受け続けてしまう(柵を飛び越えるだけで苦痛を避けられるのに)というあの状態。

僕たちもきっとそのような状態にいるのだ。

それを冷静に見極めること。

そして、その中で変えられるものを変えるべく行動していくこと。

それが重要だと僕は思う。

主体性を取り戻す

これはマネジメントの主体性を取り戻すことに繋がる。

外部環境に左右され続けることから脱し、自己決定をしながら仕事を進めていくと、同じような仕事内容であっても、世界の捉え方は大きく変わる。

もちろん、仕事の大変さや辛さが大きく減じるとまでは行かないかもしれない。

でも、少なくとも、電気ショックを受け続ける無力な犬(罰ゲームを食らい続けるマネージャー)のままではないはずだ。

それが自己充足感に繋がる。

自分が選択した未来を生きていると感じられること。

それが僕は幸福に繋がるのではないかと考えている。

被害者意識を抱えたままでは幸福にはなれないから。

マゾ的な快楽ではなく

もちろん、これは「マゾ的な快楽を楽しめ」ということではない。

「社畜であることを肯定しろ」ということでもない。

そのような苦境においても、自己決定できる物事を何とか見つけ、主体的に人生を生きていくことが大事なのではないか、ということを僕は言いたいのである。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

管理職は罰ゲーム。

それは事実です。

でも、そのような現実に対して、被害者面をしながら、何もしないのもまた違うのかなと僕は考えています。

僕は自由を大事にしています。

そこには「自己決定」があり、その結果生じる「責任」があるからです。

主体的に選んだ未来の責任を自ら取ること。

それが大人の流儀です。

ビタースイートな人生を楽しんでいきましょう。