部下を守る為にリスクを取れますか?

スリーアミーゴス
YouTubeを見ていたら、踊る大捜査線というドラマの一コマがお勧めに上がってきて、図らずも色々なことを考えてしまった。
作中にはスリーアミーゴスというコミックリリーフ的な立ち位置の管理職のおじさん3人が出てきて、その中間管理職的な立ち回り(権力に阿ったり、保身に走ったり)が戯画的に描かれている。
普段はどうしようもない人たちである。
ただ、いざとなると部下を守る為に上司に対して激怒するなど、人情味溢れる側面を見せ、それが彼らの人間的な魅力ともなっている。
僕たちはそのような上司像に親しみと、一定の敬意を持つ。
そして、ふと思う。
「こういうタイプの上司っていなくなったよな」と。
部下を守る為に正論を述べたり、上司に掛け合ったり、戦ったりする人たちがかつてはいたように思う。
また、会社側も、そのような人たちに対して、露骨に排除をするような行動は取っていなかったように思う。
それが今はどうだ?
そして、この質問はブーメランのように自分に返ってくる。
「お前はどうなんだ?」と。
今日はそんな話である。
それでは始めていこう。
上司や会社に盾突いたことはあるか?
部下を守る為に上司(や会社)に盾突いた経験。
あなたはあるだろうか?
僕はある。
そして、たぶん組織的にはそれは望ましい行為だとは取られなかったのだろうとも思っている。
だからと言って、それを後悔しているかと言うとそんなことはない。
もちろん、もう少しどうにか上手くやる方法はあったかもしれないとは思う。
でも、仮にタイムリープできたとして、その場面に立ち戻れたとして、僕が行動を改めて別の世界線に行きたいかというとそんなこともない。
たぶん同じような行動を取り、同じような道を歩むことになると思う。
結果、僕には会社からのネガティブな評価と、部下からのポジティブな評価を得ることになった訳だ。
室井慎次へのシンパシー
これは別に「ヒーローを気取れ」ということではない。
「部下を守る為に格好つけなさい」ということを言いたい訳でもない。
ただ、単純に仕事のスタンスというか価値観の問題である。
そして、そのような行動を取ってから数年経った今の僕がまた思うのは、同じく踊る大捜査線というドラマに出てくる室井慎次というキャラクターの振る舞いに対する切なさである。
部下を守る為に激高する袴田課長にもシンパシーを覚え、その電話の向こう側で官僚的なことしか言うことができない室井慎次の立場にもアイロニーを感じる。
それを僕のマネージャーとしての成長と取るか、退化と取るか?
そんなことを考えてしまったのだ。
正しいことをしたければ偉くなれ?
同ドラマには、「正しいことをしたければ偉くなれ」という言葉も出てくる。
この言葉は昔の僕と今の僕では違った響きを持つ。
まあ言わんとしていることはわからなくはない。
そして、多数の人がこのような考えを基に、組織内で苦闘しているのも事実だろう。
でも、現況はこの有様である。
となると、その言葉自体は正しいかもしれないけれど、中身が伴わないもの(空疎である)とも言えるような気がする。
たくさんの正しさの中で
偉くなれば、それなりに配慮しなければならない関係者が増える。
そして、それぞれの立場がわかるようになる。
そこには「たくさんの正しさ」が存在する。
自分が考えていた「正しさ」が違った性質を帯びるようになる。
それは必ずしも組織に媚びるとか、信念を曲げるとかそういうことを直接的に意味しない。
そのような種類の「正しさ」。
それによる組織の「変わらなさ」。
だとしたら、どうするのだ?
そのような問いがまた僕に返ってくる。
変えられないという諦念
結局のところ、僕が守りたい範囲というのはそこまで大きくないのだろうと思っている。
それは器の大きさとも言い換えられるのかもしれない。
僕には組織を変えられるほどの力も気概もない。
もっと言えば、変えられるはずがないという諦念がそこには混じっている。
もちろん、室井信次の立場は理解できる。
でも、僕にはそのような振る舞いをすることは難しい。
となると、どうだ?
僕にできることは、現場で袴田課長のように振舞うことなのだろうか?
それもよくわからずにいる。
かつての僕と、今の僕
確かにかつての僕はそうだったし、そのように行動した。
それは間違っていなかったとも思っている。
でも、もう少し高いレベルでそれを実行したいという気持ちも今の僕にはあるのだ。
リスクの取り方
部下の守り方は1つではない。
当時の僕にはそんなことは思いもよらなかったけれど、今の僕には少しだけそれがわかってきた。
ただ、どちらにしても、そこにはリスクを取る覚悟が必要であることは論を俟たない。
どのようなリスクの取り方をするか?
そして、そのリスクは期待するリターンにそぐうものなのか?
リターンの範囲を広げる
誤解されそうだけれど、これはコスパを考えたリスクテイクということを意味しない。
そうではなく、リターンの範囲をもう少し高い視座を持って捉えるべきなのではないか、という自分への戒めである。
それは人によれば、「迎合」と捉えられる種類のものなのかもしれないし、自分でもそのようなことが頭をよぎらなくもない。
ただ、そのような淡いの中で、仕事をしていくしかないのだろうとも思っている。
何だかまとまりのない話になった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
組織の調和を保つこと。
それが大事だと思う時と、そんなもの壊した方がいいんだよなと思う時が、交互に訪れてしまい、自分でもよくわからなくなっています。
部下を守る方法には種類があって、それを高度にできたら良いなと思う反面、それができないから自分らしくあるんだよなとも考えています。
そして、そのような逡巡を経て今の僕が思うのは、「そうは言っても、日本社会が上手くいっている訳ではないのではないか」という客観的な評価軸の必要性です。
内向きになり過ぎず、外を見ていきましょう。