「ブレなさ」を対話に持ち込むな

可変性と一貫性は同時に成立する
いつの頃からか、「以前と発言の内容が変わること」に対しての批判の度合いが苛烈になったように思う。
それは同時に「ブレていないこと」への称賛を内包する。
もちろん、一貫性というのは大事だし、それはマネジメントにおいても同様である。
でも、その一貫性というのは、頑なさとは違うとも思っている。
このブログにおいて、僕はよく「可変性」について言及している。
一貫性と可変性は同時に成立する概念である、ということはもしかしたらすぐには理解しづらいかもしれない。
僕は「可変性が内包されていることによって一貫性は担保される」と考えている。
これは「定番商品のアップデート」と言えば理解が進むかもしれない。
昔からある商品でも、見えない部分で現代的な味の変更が常に行われ続けている。
でも、僕たちはそれを昔からある定番商品であると捉えている。
たぶん味のアップデートが行われていなければ、その商品は「古臭い商品」とカテゴライズされて、既に失くなってしまっているだろう。
このような考え方は対話においても同様である。
ブレないこと、意見が変わらないこと、を良しとする考え方が大勢であるけれど、それは論破であって、対話ではない。
意味が分からないかもしれないけれど、今日はそんな話をしていこうと考えている。
それでは始めていこう。
「議論=論破」という基本フォーマットへの違和感
「意見を変えること=負け」
そのように捉える人が増えたように思う。
そして、それは成熟と逆行する。
そんなことを思う。
いつの頃からか、頑なに意見を変えず、自分の考え方を主張し続けるというのが「議論」の基本フォーマットになってしまったように僕は感じている。
それは「論破」という概念の広がりとも関係しているのかもしれない。
矛盾点や、過去からの意見の変更についてあげつらい、そこを突くことが相手を打ち負かすことであると、いつからか僕たちは錯覚するようになった。
ネット上だけでなく、リアルな世界においても、そのような人たちが爆発的に増えたように思う。
これを対話とは呼ばない。
でも、それを対話だと捉えている人が大勢いる。
そこに僕は途轍もない違和感を覚えるのだ。
対話する為には双方が可変性を備えている必要がある
対話とは可変性をその場に持ち込んだ上で臨むべきものである。
不変性を持ち込んだ時点で、それは対話とは見做されない。
双方が変わり得る可能性がそこにあるから、対話が成立するのである。
相手の話によって自分が変わり得ること。
それをむしろポジティブに捉えること。
それが対話である。
そして、それこそが大人の作法であり、成熟だと僕は思うのだ。
「変わらなさ」は良いこと?
政治の世界において顕著であるが、右派も左派も変わらなさをウリにすることが増えたように思う。
そして、その変わらなさを過度に演出することを得票に結びつけるのが最近の流行りなのだろうとも思う。
そこにはSNS的な世界観やキャンセルカルチャーみたいなものがきっと関係している。
でも、僕はそのような方向性を幼稚であると感じる。
もちろん、思想や価値観というのは誰しもが持っていると思うし、それを主張し、自分と同じような考え方を持つ人が増えたら良いなと願うのは別におかしなことではない。
ただ、その際には「可変性」を具備していることを条件とする必要があるのではないかとも思っている。
変化しなければ淘汰される
良いと思う意見に触れ、自分の考え方が変わっていくのは何もおかしなことではない。
というか、生物というのは変化していかなければ淘汰されるだけだと僕は思うのだけれど、多くの人はそのように考えることなく、それを軟弱だとなじるようだ。
それがどうしても僕には理解できない。
というか、そのような考え方が基底にある状態では対話など不可能であるし、より良い方向性など展望できるはずもないのだ。
違う意見を持つ者の排除
これはビジネスの世界でも同様である。
いつの頃からか、対話できる大人が激減したように僕は思う。
自分の考えと異なる人を排除することに、何の疑問も持たなくなった多数の人達。
それによって自分たちが淘汰されていく可能性を高めているとも知れずに。
僕は生物多様性と、進化の歴史をそこに思う。
1つの組織内が同じ考え方で統一されていくと、良い時には良いかもしれないが、何か大きな変化が生じた時にはそれに耐えることはできない。
多様な価値観が内包されているからこそ、急激な変化にも対応できる。
そして、そのような多様性を担保する為には、組織内において可変性を具備した対話が行われ続ける必要がある。
でも、現状はそうではない。
相手を言い負かすこと、自分の意見を押し通すこと、それに執着している者ばかりである。
それを彼(彼女)らは対話だと捉えている。
僕はそれを全体主義だと感じる。
そして、その行く末は歴史を参照するまでもないだろう?
成熟とは可変性である
尊敬できない大人たち。
若者たちが「何を言っても無駄」と思うのは、そこに変化可能性を感じられないからである。
それを成熟と呼ぶなかれ。
成熟とは変化可能性を内包しながらも、一貫性を保持することである。
それこそが大人の作法だ。
少なくとも、僕はそのようなしなやかさな大人でありたいと思っている。
変な話になった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
変化を極端に恐れる人たち。
僕にはこれがよくわかりません。
きっと変化をすると糾弾されると思っているのでしょう。
そこには他者への信頼の欠如があるような気がしています。
頑なであるモノは脆い。
弾性と塑性。
違う意見を面白がれる余裕さ。
それこそが成熟では?
変化することを恐れずに仕事をしていきましょう。