ハリボテ社会ニッポン

UnsplashMarkus Spiskeが撮影した写真

成果主義が問題だ

物事の本質よりも、表面を如何に綺麗に見せるか?

それが当たり前の話になったのが現代日本社会である。

そんなことを思う。

もちろん、このような傾向は普遍的なもので、別に目新しいものでないと言えばその通りかもしれない。

我々人間には確かにそのような傾向がある。

でも、現代日本においては、それがあまりにも行き過ぎているのではないか?

以前にも言及したことであるが、このような変化が如実に現れるようになった要因の1つとして、成果主義があると僕は考えている。

僕は成果主義の信奉者であるが、現在のような状況を生み出したのは(もしくは加速させたのは)成果主義であるとも思っている。

そこには成果主義特有の問題点がある。

というか、「成果」というものを評価する時に、定量面(KPI含む)に囚われ過ぎているところに問題点があると僕は考えている。

その結果、数値を綺麗に飾ることが横行し、それを上手に出来る者が優秀であるという考え方が広まってしまった。

それを是正する為にはどうしたらいいのだろうか?

今日はそんな話である。

それでは始めていこう。

「盛られた」世界

「話がつまらない大人が増えたな」

自分のことを思い切り棚に上げて、そんなことを思う。

彼(彼女)らの話の大半は「自分が物事を如何に上手くやったか」であり、その表現方法として「定量面(KPI含む)を盛る」という手法が言わば普遍的になった。

インスタグラムなどに上げられている盛られた写真に辟易しているように、僕はこのような話に嫌気がさしている。

そして、「本当はどの程度なんだ?」と邪推してしまう。

そのような「フィルター解除」を経なければ実際の成果がわからないことに本当にウンザリしているのだ。

現実との乖離

メタバースのような仮想世界を敢えて構築しなくても、すぐそこに仮想世界は現出している。

それが「盛られた世界」である。

あらゆる物事が過剰に美化され、数値は素晴らしいものに転換され、まさに理想世界がそこにあるように演出される。

でも、実際にそれを現地に行って見てみると、百聞は一見に如かずの言葉通り、全く異なった現実世界が広がっている。

これは何なのだ?

その度に僕はそう思ってしまう。

メニューと実物

報告と現実の乖離。

これが現代日本では当たり前になってしまった。

遠くから眺めれば素晴らしいモノのように見えるけれど、近づいたり、実際に手に取ったりするとその粗が目立つ状況。

メニューと実際に出てくる商品の大きな違い。

そのような事態が常態化し、もう驚くこともなくなってしまった。

これは言ってみれば異常事態なのだけれど、いつの頃からか僕自身も麻痺してしまって、物事を割り引いて見たり聞いたりすることがデフォルトにすらなってしまっている。

さて。

この状況を変える為にはどうしたらいいのだろうか?

アートの欠如(似非サイエンスの横行)

冒頭に、このような傾向の1つの要因として成果主義があるということを書いた。

そして、成果の評価軸が定量面(KPI含む)に偏り過ぎていることが問題である、ということを挙げた。

ここには感性とかアートの欠如があるのではないか、と感じている。

もっと言えば、「エセサイエンス」というか。

サイエンスとサイエンスに見える数字

僕は仕事の成果を測定する為には、サイエンスとアートのバランスを図ることが大事だと考えている。

サイエンスに偏り過ぎてもいけないし、かといってアートに寄り過ぎてもいけない。

数字至上主義ではダメだし、感覚に頼り過ぎるのもまた違う。

その両者をバランスよく評価することが大事なのである。

そして、現在を僕はサイエンスに偏り過ぎている状況だと捉えている。

もう少し言及するなら、「サイエンスに見えるような数字」が幅を利かせすぎていると感じている。

ここにメスを入れるべきなのである。

そして、その為には評価の質を上げるしかない。

「サイエンスに見えるような数字」が本当にサイエンスなのか?

というか、評価というのはサイエンス(数字)によって行うのが本当に適切なのか?

そのような問いを持つ必要があるように思う。

評価とリスクテイク

ここにはリスクテイクが不可欠である。

結局のところ、定量面(KPI含む)で評価するというのは、誰からも文句を言われないようにリスクを極小化する動きと同義である。

もちろん、ここには評価に恣意性が働き過ぎていた旧時代からの反省がある。

でも、現代のような定量評価全盛の時代というのは、それはそれで問題であるような気がしている。

感性というか、言語化が難しい部分で評価することもまた大事なのではないか?

定量面だけでなく、それが本質的であると感じるなら、誰が何と言おうとそれもまた評価すべきなのでは?

AIに評価を委ねるか?

これからの時代、定量評価はますます幅を利かせていくだろう。

それはAIと親和性の高い評価方法であるから。

一定のアルゴリズムの下、入力された(もしくは収集された)パラメーターによって下される評価。

それを僕たちは「公平だ!」と言って、きっとありがたがるのだろう。

でも、そのアルゴリズムって適正なの?

僕はそのように思う。

そして、そこには絶対的にアートが不足するとも思っている。

ハリボテ社会ニッポン。

それで良いならいいけれど。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

AIによる民主化。

サイバー・デモクラシーのような思想。

僕はともすれば、このような方向に共感を覚えてしまいそうです。

「全てのデータを採集し、それを合理的なアルゴリズムにぶち込めば、理想世界が現出するはずだ」

これにNoと言うことは、僕には難しそうです。

でも、違和感はそこにあります。

それは衆愚政治的なものかもしれませんし、平等性に対する嫌悪のようなものなのかもしれません。

今日の話の文脈に即して言うなら、リスクテイクの不在ということになるのかもしれません。

リスクの所在を徹底的に排除していく結果生まれる一見平等なディストピア。

行き過ぎた定量評価はその端緒と言えるのかもしれません。

感覚や本能、動物的なもの身体的なものは徹底的に排除すべきものなのか?

僕はまだそこがわかっていません。

「スコアリングこそが平等な評価ではないか」という問いに対する有効な回答を探すべく、もう少し考えてみようと思っています。

引き続き読んで頂けたら幸いです。