間違いを認める

UnsplashFrancisco De Legarreta C.が撮影した写真

「間違いを認めること=敗北」ではない

部下から信頼されるようなマネージャーになりたいですか?

今日はそんな問い掛けから文章を始めてみる。

もしあなたが信頼されるようなマネージャーになりたいと願うなら、手っ取り早い方法がある。

それは「間違いを認める」ということである。

これは非常に簡単だ。

でも、実際にできる人はそんなにいない。

だからこそ価値があるとも言える。

現代社会において、「間違いを認める=敗北」と捉える人が多すぎるように感じている。

何としてでも間違いを認めようとしない人ばかりだ。

ただ、当たり前の話であるが、間違いを認めることは負けではない。

そして、それを真摯に行える者に信頼が生まれるのである。

何だか書きたいことは既に書いてしまったような気もするけれど、それでは始めていこう。

かつて存在していた潔さ

潔さの消失。

現代日本社会に特に感じるのがこれである。

昔話で恐縮であるが、僕が会社に入った頃には、このような潔さを持った大人が一定数存在したように思う。

幸いなことに、僕はそのような風を浴びながら社会人生活の最初期を送ることができた。

もちろん、当時の大人達には現代のコンプライアンスの感覚からすればどう考えてもアウトである側面があったことは事実である。

でも、そのような状況においても一定の信頼感を維持できていたのは、そのような潔さや矜持のようなものがあったからであると僕は思う。

彼(彼女)らは権威を持っていたし、それを時に権力として行使していたけれど、そこに間違いがあった場合には、間違いであることを認める度量を同時に保持していた。

そして、周囲もそのような態度に対して、それ以上糾弾することはせず、水に流すというか、手打ちにするというか、そのような暗黙の合意のようなものがあったように思う。

美学の問題?

もしかしたら、このような話というのは、美学の範疇の話なのかもしれない。

僕がそのような価値観を好むから、それが良いと主張しているだけなのかもしれない(きっとそうなのだろう)。

ただ、少なくとも、僕はそのようなマネジメントをしていきたいと思っているし、実際問題としてそれが信頼を得ることに繋がった経験もあるので、もしかしたら誰かの役に立つかもしれないと考え、以下もう少し詳しく書いていこうと考えている。

社会の幼児化とパーフェクショニズムの呪い

大人が頭を下げること。

それもそれなりの地位にある人が頭を下げること。

そのような仕草(作法)を見ることがめっきりと減った。

そんなことを感じる。

僕はここに社会の幼児化を感じる。

また、そこにパーフェクショニズムの呪いのようなものを感じる。

間違いなんてただの間違いに過ぎない

人は間違いを犯すものだ。

それは文章にすれば、誰だって「そうだよね」と考えるものであると思う。

物事が最初から最後まで完璧であるということは起こり得ない。

だから、どこかのタイミングで修正や訂正が必要になる。

そして、修正や訂正を行う為には、それまでの行為に対する総括が必要になる。

もしその総括の中で、何らかの問題があったのだとすれば、それを認め、詫びを入れ、そこからまた新しい方向に進んでいけばいい、僕はそのように思う。

別にそこに非があったことをそれ以上糾弾したいとは思わないし、鬼の首を取ったようにあげつらいたい訳でもない。

何と言うか、ただの間違い(エラー)に過ぎない、そのように思うだけなのだ。

フィードバック機構があるから物事は改善していく

ただ、それを認めない場合、それは違うのではないかと僕は思ってしまう。

方針や戦略が間違っていた場合、間違っていたことを認めることは、次に進むエネルギーを生む為に必要なことだ。

それは繰り返すが、糾弾したいということではない。

一つの区切りというか、休符をそこに置くことが大事だと思うのである。

振り返りの行為こそが物事をアップデートしていく。

フィードバック機構があるからこそ、問題が修正されていく。

僕はそのような思想を持っている。

躊躇いを乗り越えた人を信頼できる人と見做す

そして、プログラミングと人間が違うのは、そこに感情が介在するという点である。

機械は振り返ることに躊躇いを持たない。

でも、人間はそこに躊躇いを覚える。

そして、そのような躊躇いを乗り越えた者を、僕たちは信頼に足る人物だと評する。

裏を返せば、それをうやむやにする者に対して、信頼を覚えることはない。

そのように思うのだ。

失敗を表明することの効力

失敗はデータに過ぎない。

僕はそのような考え方を持っている。

ただ、実際に10年ほどマネジメントをやってきて思うのは、それを周囲に表明することの難しさと、表明することによる効果の大きさである。

自分では失敗を失敗だと誰しもが思うはずだ。

でも、それを失敗したと周囲に公言することは思いの外難しい。

ましてや、このような環境である。

失敗したと表明すれば、嵩になって襲い掛かってくるのが現代日本社会である。

ただ、それができる時、あなたに対する周囲の目は劇的に変わる。

少なくとも、僕はそれによってマネジメントのレベルが大きく変わったと自負している。

言葉の重さ。

その伝わり方が信じられないくらい変わってくる。

そしてそれこそが、現代日本に足りたいものなのではないかと僕は思うのである。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

誠実さ。

今日の話を単語で表現するならそういうことなのかもしれません。

これは他者を信じるということにも通じます。

多くの大人たちは他者を信じていません。

他者を信じていない人に信頼など生まれるはずもありません。

他者を信じ、間違いを認めていきましょう。