差がつくことに慣れよう

やる気なんて知らんぜ?
いつの頃からか、職場に活力がなくなったように思う。
少なくとも、僕が会社に入った頃にはもう少し職場はエネルギッシュだった。
もちろん、そのような(ある種モーレツな)働き方が適切だったかというとそんなことはないけれど、一方で昨今のような活力の低い状況というのも、それはそれで問題なのではないかと考えている。
と言っても、当時のような状態に戻れるはずもないし、戻るべきでもないとも思う。
僕がマネージャーの仕事をやっていて難しいと感じることの1つに、「部下にやる気を出させる」ということがある。
それも若手ではなく、中堅以上の社員のやる気を出させるというのは僕にとっては至難の業である。
そこには僕自身が「やる気なんて他者から出させられるものではなく、自分でどうにかするものではないか?」と考えていることがきっと関係している(単に僕の実力不足なだけかもしれない)。
仕事への取り組み方は自由でいいし、それぞれの価値観やスタンスがあっていい。
そういう意味では「やる気」なんてものはあってもなくてもいい。
これは上述したことと矛盾しているように見えるけれど、そんなこともない。
やる気とは個人の問題である。
でも、成果は個人だけの問題ではない。
そして、成果によってやる気に変化が起きるとするなら、それを上手に活用してもいいのではないか?
今日はそんな話である。
それでは始めていこう。
ニンジンでやる気が出るなら、ぶら下げればいいのでは?
やる気のなさの要因の1つに処遇に差がつかないことがあるのではないかとずっと思っている。
これはやってもやらなくても同じということを意味する。
僕自身は「処遇によってやる気が左右される」というのは、理解こそすれ共感は出来ない物事であるけれど、マネジメントという仕事を10年ほどやってきて思うのは、そういう人はとても多い(というか皆そう)ということである。
そして、これはある種解決可能な物事であるようにも思える。
言い方は悪いが、ニンジンをぶら下げることでやる気が出る人がいるなら、それもそれなりに多くそういう人がいるなら、適切なニンジンをぶら下げればいいのではないか?
そんな風に思うのである。
処遇に差がつかない状況は変えるべき
それも罰方向にこれをやると色々な問題が生じそうだけれど、そうではなく褒める方向にこれをやり、結果的に処遇に差がつくのであれば、それはそれで仕方がないと考える人もいるように思うのだ。
もちろん、それを行う為には、成果主義のアップデートが必要になる。
というのも、現在の成果主義の評価方法は(いつも書いていることで恐縮であるが)、定量評価(KPI含む)に偏り過ぎであり、かつその定量の数字自体に恣意性が働き過ぎているように感じるからである。
これはもしかしたら社員同士の評価みたいな形で解決できるかもしれない(それはまたどこかで書こうと思っている)。
いずれにせよ、現状のような処遇に差がつかない状況というのは変えた方がいい、それが僕の考えである。
モチベーションと成果は分けて考えるべき
ある程度の年齢になると、仕事に対するモチベーションが失われていく。
これはやむを得ないものだとは思う。
自分のキャリアの限界が見えたり、仕事に対する価値観が変わったり、そのようなことが複合されて、どうにも仕事に身が入らない、そういうことは往々にして起きることである。
でも、それはそれとして、成果とは切り離して考えるべきだとも思っている。
失われた30年の原因
職場で漫然と働いていても、一生懸命働いていても、処遇に対して差がつかないのであれば、誰だってやる気が削がれていく。
このような書き方はやや誇張気味ではあるものの、日本全体に見られる傾向であるようにも思える。
それが社会の安定に寄与しているというのは確かかもしれない。
ただ、その結果がこの失われた30年である。
それでいいのだろうか?
僕はあまり良いとは思えないのだ。
公平とは? 平等とは?
もちろん、格差というのは出来ればないに越したことはない。
皆が平等であり、公平であるよう努めるべきではある。
でも、その平等や公平という言葉がどのような状態を指すのか、どのような状態を指すべきなのか、というのは問い直してもいいように思うのだ。
僕には今の状態が平等や公平だとは思えない。
正直者が馬鹿を見る、それが現代の日本社会だと思っている。
それを少しでも変えるべきなのでは?
その結果、多少の格差がついてしまうことは仕方がない(必要悪)のでは?
そんな風に思うのである。
経済環境が変わってきたことで格差は大きくなっていくだろう
幸いなのか、不幸なのか、それは評価が難しいけれど、昨今の経済環境は一昔前に比べて大きく変わってきた。
デフレ傾向からインフレ傾向に変化し、物価や給料が上がっていくことに僕たちは段々と慣れ始めてきた。
そういう意味では、この傾向が続けば徐々に差は付いていくようになるのかもしれない。
正直者が馬鹿を見ない社会を
僕は真っ当に働く人が真っ当に評価される社会を望んでいる。
もちろん、その「真っ当さ」というのは評価が難しいものではある。
でも、少なくとも現状は真っ当であるようには思えないし、それを是正する方法の1つとして差を付けるというのは悪くはないように思うのである。
また物議を醸しそうな話になった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
社会主義国よりも社会主義的な国。
暴論は承知でそんなことを思ったりもします。
もちろん皆が平等や公平であればその方がいいと僕だって思います。
でも、現状はむしろそうではないのでは?
というか、国力が衰微していけば、平等や公平なんてものを実現することは不可能では?
そんなことを思ってしまいます。
沈みゆく船の中の茹でガエル。
ヘラヘラとしただらしない笑顔。
少なくとも僕は御免です。
こんな僕ですが、引き続き読んで頂けたら幸いです。