仕事の範囲を極小化する人たち

UnsplashAndrey Matveevが撮影した写真

仕事をできるだけやらないことで利益を得ようとする人ばかり

仕事の範囲を極小化することでコスパを上げようとする行為。

これにウンザリしている。

そして、そのような人たちをどうにかして減らすことはできないのだろうかと考えている。

というか、僕以外の人はこのような状態に対して疑問を持ったり、憤りを感じたりしないのだろうか?

それが僕にはよくわからない。

成果主義にはたくさんの問題がある。

それは確かだ。

でも、このような仕事をできるだけしないことで利益を得ようとする人たちがたくさんいる状態の方が不健康だと僕は思っている。

もちろん、成果の評価(尺度)というのは難しい側面がある。

でもさ、というのが今日の話である。

いつも通り愚痴めいた話になりそうだけれど、とりあえず始めていこう。

面倒な人だと思われる方が有利なゲーム

「わからないからできない」

「やったことがないからできない」

そのような態度それを受け入れてしまう状況に本当に辟易としている。

それも、そのように言う人が「面倒な人認定」されていればいるほど、罷り通ってしまうことに。

結局のところ、如何に面倒な人であるかを認識させるかゲームみたいになっていて、「そりゃ生産性なんて上がるはずもないよな」とその度に感じることになる。

これを解決する為には、マネジメントでどうこうするという話ではなく、人事制度の見直しが必要なのだと僕は思う。

「それ以前の話」ばかり

マネージャーになって10年になるが、マネジメントという本来業務で悩むよりも、今日のような話に振り回されてウンザリすることの方が体感的には多いような気がしている。

「それ以前の話」というか。

そして、そのような「それ以前の話」が解決不可能であるかと言われると、そんなこともないのではないか、と僕は思っている。

信賞必罰とまではいかなくても、きちんと仕事している人にきちんとした対価を、そうではない人にそれなりの対価を渡すことによって、現在の状況よりはマシになるはず、心からそう思う。

それと同時に、なぜそれをやらないのだろうか、という疑問も湧いてくる。

アメリカも大いに問題だが…

やや経済学的な話にはなるけれど、雇用を守るというのはとても大事なことだ。

それはよくわかっている。

でも、雇用を守ることを最優先にし過ぎたあまり、新陳代謝が進まず、経済が停滞してしまったのがこの失われた30年だったのではないかとも思っている。

もちろん、アメリカのように、バッサバッサと人員削減するのは違うのかもしれない。

それによってえげつない格差が生まれてしまっている(それが社会不安に繋がっている)のも事実だろう。

ただ、そこまで行かずとも、もう少しどうにかする方法はある(あった)のではないか?

そんなことを思うのだ。

おかしいのはオレだけなのか?

生産性を上げることに意味や価値を見出すことができなければ、誰だって生産性を上げようとは思わない。

そうではなく、できるだけ仕事の範囲を狭めることでコストパフォーマンスを最大化しようとするインセンティブが働くようになる。

これは生産性を上げるのは大変で、仕事の範囲を狭めるのは簡単だからである。

でも、個人個人のそのような選択が積み重なった結果、社会全体が停滞することになったようにも思う。

それをやめないか?

というか、冒頭にも書いたように、それに憤りを感じているのは僕だけなのか?

それがずっとよくわからないでいる。

人事制度の問題?

僕はマネジメント不全が問題なのかと思っていた。

それでこのブログを立ち上げた訳だけれど、何だか最近は人事制度に問題があるのではないか、そちらの要因の方が圧倒的に強いのではないか、と考えている。

そこをどうにかしない限り、管理職の罰ゲーム的環境は変わらないし、生産性が上がることもないのでは?

とても無責任的な言い方であるとは思うものの、そう感じることが多過ぎるのだ。

少なくとも、仕事の範囲を極小化することが得になる状況は変えなければならないのではないか?

馬鹿らしくなるのも当たり前

正直者が馬鹿を見る社会。

仕事の範囲を極小化する人がやらなかった仕事を、本来その仕事をやるべきではない他の誰かがやっている状況。

でも、その人が褒められるでも、処遇が改善されるでもない状況。

そりゃ誰だって馬鹿らしくなってしまうよな。

そういう社会

給料カットや、雇用カットはそんなにもタブーな話なのだろうか?

僕にはそれがよくわからない。

明らかに仕事をしていない人が職場にいる状況の中で、どのような人たちが前向きに努力をしようと考えるのだろうか?

というか、そういう社会でいいのだろうか?

僕はそれは嫌なのだ。

健康的な社会を

仕事をしている人が、完全にとはいかなくても、それなりに報われる社会。

そちらの方が健康的であると僕は思う。

何と言うか、前向きな感じがするのだ。

相対評価の沼。共に沈んでいく日本。

現在の状況は、僕が学生時代に感じていた相対評価についての違和感に似ている。

自身の相対評価を上げる為に、他者を引き摺り下ろそうとするあの感じ。

そうではなく、自分の学力を上げることで評価を上げればいいのでは?

確かにそちらの方が大変ではある。

でも、そういう社会の方が建設的なものが生まれてくるのでは?

宣言通り愚痴めいた話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

本文を改めて読んだ後で、「他人のことを気にし過ぎなのか?」と疑問に思い、「他者は他者であり、そんなことを気にせずに自分のやるべきことに邁進すればいいのでは?」という所まで行って、「いやいや、そういうことではないんだよな」と戻ってきたのが現在地点です。

それは正論ではありますが、僕にはどうやってもそこまで思うことができません。

もちろん、「あいつら」に不満を覚えるのは人間の性なのかもしれません。

そしてその呪縛に僕も囚われていると言えるのかもしれません。

でも、だからと言って、それが納得的なのかと言われると、そうではないような気がしています。

村の中での相対的ポジションを気にし過ぎ?

でも、その村が滅んでいったら何にもならないのでは?

僕にはその辺がよくわかりません。

そんな僕ですが、引き続き読んで頂けたら幸いです。