意味よりも欲望に忠実に

意味なんてない
Life is desire, not meaning.
チャップリンの言葉。
それを思いながら仕事をすることが増えた。
それは上手く言えないけれど、意味を求める人が多過ぎて、それに疲れてしまっているからなのかもしれない。
「それって何の意味があるんですか?」
若手を中心に問われる意味。
「意味なんてないよな」
それが僕の答えである。
そして、それよりも「やりたいと思うこと(欲望)に駆動された方が楽しいのでは?」と僕は思ってしまう。
今日はそんな話だ。
それでは始めていこう。
ラカン的欲望
コスパとは意味である。
皆意味を求めて仕事をしている。
でも、そこに欲望はない。
いや、「何者かになりたい」という欲はあるのだ。
でも、そのナニモノというのが、自分の欲望に駆動されたものではないというか。
それは象徴のようなもので、誰かに何者かだねと評価される為のアイコンとしての欲望というか。
そのような迂回的な欲望(ラカン的な)。
僕が言いたいのはそういうことではない。
あくまでも自分発信のもの。
衝動に近いもの。
それを大事にした方がいいのではないか?
それが僕の主張である。
楽しければよくね?
何かというと意味が付きまとう時代。
意味を求める時代。
意味なんていらないよな。
楽しければいいんだよな。
良い風のようなもの
このような書きぶりは、享楽主義を想起させるのかもしれない。
でも、別に快楽を追求したい訳ではないのだ。
そこに湧き出るもの。
「何かをやりたい」という欲動。
それは大層なものでなくていい。
ちょっとしたイメージ。
ちょっとした希望的観測。
良い風のようなもの。
それがあれば仕事は楽しくなる。
というか、人生は楽しくなる。
そんなことを思うのだ。
心地良い状態
快の感情。
いつの頃からか、仕事において重要なのはこういうことなのではないかと思うようになった。
それに駆動されて、そちらの方向にフラフラと行ってしまうことが実は良いことなのではないかと感じている。
それはもしかしたら「勘」のようなものなのかもしれない。
でも、そこまで意識的なものではないようにも思う。
「風向き」のようなもの。
そちらの方に進むと、体が少しだけ伸びるようなあの感覚。
そんな言語化しづらいもの。
それを基に仕事をする方が成果が出るように思うのだ。
人生に意味などない。それは仕事においても同様だ。
多くの人は意味を求める。
人生には意味が必要だと考えている。
でも、改めて書くまでもなく、人生に意味などない。
それは仕事においても同様である。
仕事には意味などない。
「なぜそれをやらなくてはならないのか?」という問いに対する答えはない。
「別にやらなくて構わない」
僕はそう考える。
でも、多くの人はそこに意味を求めるようだ。
そして、もっともらしい説明を行おうとする。
仕事を欲望によって行うことは良いことではない?
意味と説明は一対のものだ。
でも、欲望は説明不可能なものでもある。
というか、いつの頃からか、「欲望を説明しようとしても理解されないものなんだな」と僕は気づくことになった、というのが正確な表現かもしれない。
仕事を欲望によって行うことが良いことだと思うことが、多くの人には理解できないようなのだ。
「仕事とはそういうものではない」
そのように多くの人は考える。
そして、切々と僕に説いてくる。
では、逆に問うが、仕事とはどういうものなのだ?
それに対する納得的な回答が得られたことはない。
僕はそこにいつも違和感を覚えるし、越えられない距離を感じる。
あなたの目的地に僕は既に到達している
「目的地に最短距離で向かいたい」
そのような考え方。
でも、結果的には僕の方が先にその目的地に到達しているという現状。
それが彼(彼女)らには理解できないようだ。
そして、僕がその目的地を目的地だとも思っていないことに。
意味は力を生じさせない
それは「気づけば事後的にそうだった」という種類のものである。
別にそうなろうとしてなった訳ではない。
「目指すべき目標を置いて、そこに真っすぐに向かって行くこと」を良いとする考え方。
それは意味を置く行為だ。
でも、残念ながら意味はパワーを生じさせない。
それはあくまでも意味だからだ。
しかし、欲望は違う。
欲望はパワーを生じさせる。
何かをやりたいという意思がそこに生じ、快の感情が生まれる。
楽しいから踊る、そうだろう?
それはダンスに似ている。
踊るのは楽しいからだ。
体がそのように動いてしまうからだ。
そこに意味なんてない。
でも、多くの人はそこに意味を求めようとする。
「何かを表現しているのではないか?」
そのような批評。
いやいや、ただの衝動なんですよ。
脳的な仕事
インスピレーションとインプロビゼーション。
刹那的な衝動。
でも、それが大事なのだ。
硬直した体。
意味を求める脳。
脳で仕事をするたくさんの人たち。
体が求める動きをしてみたら?
いや、別にそれがわからない訳ではないのだ。
でも、そちら側に寄り過ぎでは?
もっと体が求める動きをしてみてもいいのでは?
面白さは不要?
小さく纏まった仕事。
確かにそれは整合的なのかもしれない。
ただ、面白くはないよな。
仕事に面白さなんていらない?
僕にはそれがよくわからない。
だとしたら、人生にも面白さは不要なのか?
コンプリート願望に駆動された仕事
目的地を巡る旅。
スタンプカードを埋めるだけの単純なお仕事。
コンプした先に何があるというのだ?
それを欲望と呼ぶなかれ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
意味と欲望とラカン的欲望。
これが混在しているため、本文は少し読みづらいように感じます。
そしてあとがきを書いている現在時点の僕が思うのは、多くの人は「他者の欲望を欲望すること(ラカン的欲望)=意味」と捉えており、そうではなく自分の心性(欲望)にもう少し正直に向き合っても良いのではないか、ということです。
「やりたいからやる」とか「気持ちいいから動いてしまう」とか、そのようなある種原始的な欲望。
そのようなシンプルな世界が、何周も先を回ろうとする面倒くさいこの状況を変えてくれるような気がしています。
面白さに駆動される仕事。
「それってやりがい搾取じゃね?」みたいな言説に左右されない単純性。
意味や形式を超えていきましょう。