脛に傷を持ったマネジメントを

UnsplashLaura Chouetteが撮影した写真

双方が持ち出しをすること

「アイツらが悪い!」

そのような言葉をマネジメントという仕事をしていると聞くことがある。

もちろん、その気持ちはよくわかる。

そして、事実そのような傾向はあるのだろうし、もしかしたらそれは正しいのかもしれない。

でも、それでは何も変わらないとも思う。

何かを改善させたいと願うなら、そこには何らかの「持ち出し」が必要で、それを双方が行うことでしか、物事は改善していかない。

それが僕がマネジメントという仕事を通じて理解したことだ。

また、そこで「持ち出し」をする為には、自分の脛にも傷があることを自覚する必要がある。

そんなことを思う。

完全な正義など存在しないから。

何だか言いたいことは言ってしまったような気がするけれど、今日はそんな話である。

それでは始めていこう。

二元論とその着地

こちら側とあちら側。

そのような二元論に挟まれながら仕事をしていくのがマネジメントという仕事である。

そして、それを華麗に着地させることが求められるのもマネジメントという仕事の特徴だ。

そこで大事になるのが罪の意識というか、恥の概念なのではないかと僕は考えている。

これはどういうことか?

「正しさ比べ」という隘路

「正しさ」というのは反発を招く。

それがどんなに正しいものだと思ったとしても、相手側からすれば正しくないと思われる場合があって、そのような「正しさ比べ」に陥ってしまうと、どうやっても収拾がつかなくなってしまう。

そのような隘路に向かってはいけない。

それを回避する為には、「疚しさ」を提示することが大事なのではないかと僕は考えている。

エコーチェンバーやフィルターバブルは居酒屋談義と何が違うのか?

もちろん、現代という時代は、こちらが隙を見せると嵩になって掛かってくる時代ではある。

弱みを見せればそこを的確に突いてくる、そんな時代である。

でも、それによって議論は膠着し、どこにも辿り着かない、にっちもさっちもいかない、というのもまた事実であるような気がしている。

自分が正しいと思う者同士で固まり、同じような思想に浸り続ける、それがエコーし、更にその考えを強化していく、それが現代だ。

それでポジティブな方向に物事が行っているならいいのだけれど、そうでない場合、「これって誰得なん?」と僕は思ってしまう。

どうやったって相手を納得させられず、またこちらも納得しない場合、そこにあるのは「停滞」でしかない。

もちろん、そのような停滞を通じて、憂さを晴らすことはできるのかもしれない。

同じような考え方を持つ者同士で連帯を深め、居酒屋談義のように盛り上がるのかもしれない。

それはそれで必要なことだとは思う。

でも、何も進まないよなとも僕は思ってしまう。

外部がないならそれでもいいぜ?

組織には様々な利害が存在する。

それぞれにはそれぞれの言い分がある。

そして、きっとどれも間違ってはいない。

それぞれの立場での正しさが存在する。

その中で誰も譲らないのであれば、訪れるのは「停滞」だけで、それでも会社が順調に進んでいくのであれば、幾らでも内輪の議論を続けて気持ち良くなっていればいいと僕は思う。

でも、大抵の場合、そうはならない。

そこには外部が存在し、競争が存在するからである。

近くにいるから憎く思える

それを時に僕たちは忘れてしまいそうになる。

内部でいがみ合っている間に、どんどんと取り残されていることに。

ただ、それを理解できても、身近にいる間違った奴を許すことはできない。

この停滞の原因はアイツらにある、そう思ってしまう。

それを打開する為にはどうしたらいいのだろうか?

脛に傷がない人などいない

冒頭に双方に「持ち出し」が必要である、と僕は書いた。

また、その為には、自分の脛にも傷があることを自覚する必要があるとも。

弱みを見せるのが得策ではない現代においても、双方が自分に傷があることを自覚しているのであれば、そこに打開の余地はある、そう僕は考える。

脛に傷がない人などいないのだから。

それを指摘し合うのではなく、開陳し合うことで、僕たちは前に進むことができる。

それすらもない?

もちろん、その為には罪の意識恥の概念が必要である。

「それがないから、アイツらはダメなんだよ!」

その気持ちもわかる。

でも、本当にそうなのだろうか?

その勝利は何のため?

攻撃的な態度は、相手の防御姿勢を強化する。

それを緩め、自分からガードを下げることで、話し合う余地をそこに生じさせる。

もちろん、ガードを下げたとて、相手がそれを良いことに攻撃を続けるということは起こり得るだろう。

でも、その議論に勝ったとて、何か生まれるのだろうか?

僕にはそれがよくわからない。

というか、それをやっていることが恥ずかしいことであるという考え方を普及させることでしか、そこから脱することは難しいのではないか?

死体蹴りではない道を

無抵抗の者を殴り続けることはダサいよね、という考え方。

そして、その殴っている者にその資格があるのか、ソイツにも傷があるのではないか、と問うこと。

それが「停滞」から抜け出す為の第一歩なのではないか?

そして脛の傷を見せ合いながら、「じゃあどうすりゃ良かったんだ?」と考えるのが建設的な議論の礎になるのではないか?

僕はそんな風に思うのである。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

第三者視点。

二元論から抜け出すためにはそれが必要です。

そして、そこには罪の意識も必要なのではないか、というのが今日の話です。

AもBも正しい時に、A‘やB’ではなく、Cを考えること。

そしてそのCを考える時に、疚しさを抱えていること。

それが建設的な議論には必要な気がしています。

傷の痛みに身悶えしながら、前に進んでいきましょう。