ブルシットの再生産を止めよう

UnsplashDmytriy Kravchenkoが撮影した写真

僕たちの仕事はブルシットだ

仕事への虚しさや無意味さを感じる時がある。

と言っても、別に鬱めいた話ではなく、日常的に行っている業務に対して、ふと「これって何の意味があるのだろうか?」と考えてしまうという、言わばカジュアルなものだ。

デヴィット・グレーバーが提唱した「ブルシット・ジョブ」が世の中には溢れていて、それはもう資本市議社会のデフォルトにすらなっている。

そして、僕自身の仕事もその例外ではない。

ブルシット・ジョブとは、働く本人ですらその存在を正当化できないほど、完全に無意味で、不必要で、時には有害ですらある有償の雇用形態のことを指す。

自分の仕事を振り返った時に、マネジメントという仕事の多くはこのブルシット・ジョブというカテゴリーに含まれていることに気づくはずだ。

誰かを偉大に見せる為だけに存在する仕事。

他者を脅したり、欺いたりする要素を持つ仕事。

組織の根本的な欠陥を、表面的に繕うためだけの仕事。

実質的な意味はないが、官僚機構上、手続きの為に必要な書類を作成する仕事。

他者にブルシット・ジョブを割り当てる為だけに存在する、中間管理職や号令係のような仕事。

これらの要素が複合的に組み合わされているのが僕らの仕事である。

そして、その流れはどうにも止められそうにない。

ただ、そんな状況下でもできることはあるのではないか?

今日はそんな話である。

それでは始めていこう。

報告するという行為だけの為に作られるペーパーたち

資本主義社会にはブルシット・ジョブがつきものである。

それは日々の仕事をしていると痛感することである。

もっと本質的なことに注力したいのに、報告モノのようなペーパワークに忙殺されている。

そして、その報告に意味があるならいいけれど、それがないことに気づいてしまっている状況。

報告をするという行為の為だけに作られるペーパー。

それが終わった瞬間に捨てられる数々のモノたち。

プリテンダー

ただ、ブルシット・ジョブが難しいのは、「その仕事に意味があるように振舞わなければならない」点にある。

自分でもその仕事に意味がないことは気づいている。

でも、「意味があるのだ」というフリをしなければならない。

このような欺瞞。

それが僕らの精神を少しずつ蝕んでいく。

他者にブルシット・ジョブを割り当てるだけの簡単なお仕事

ケインズが言ったように、週15時間労働とまではいかなくても、もう少し短時間で効率的に仕事を行えるはずなのだ。

それに誰もが気付いていながら、そうしてはいけないという考えの元に繰り返されるブルシットな行為。

また、僕たちマネージャーの難しい所は、自分だけならまだしも部下に対してもそのような仕事を押し付けなければならないということがある。

上から降りてきたブルシット・ジョブを、的確に下に降ろすこと。

それが言わば、中間管理職の仕事である。

「他者にブルシット・ジョブを割り当てる為だけに存在する、中間管理職や号令係のような仕事」

冒頭に書いた定義がリフレインされる。

それでいいのだろうか?

僕たちにできることは本当にないのだろうか?

訳知り顔でいいの?

大きな流れを止めることは難しい。

ブルシット・ジョブというのは、日本に限らず、世界中で見られる現象である。

そんな大きな潮流を、僕たちごときがどうにかできる訳ではない。

それは事実だ。

でも、だからと言って諦めていいのだろうか?

また、「仕事ってそういうものだから」と訳知り顔でいていいのだろうか?

僕はそれではいけないと思う。

その流れを止めることは難しくても、少しでも弱めることはできないのだろうか?

それが僕がずっと考えていることである。

流れを緩める(もしくはせめて加速させない)

例えば上からブルシットな仕事が下りてきたとする。

それをそのままの状態で下に受け流すのではなく、その流れを少しだけ弱めてパスすることはできないのだろうか?

もちろん、そのような行為に本質的な意味や効果があるのかと問われると、意味はないし、効果も薄いのかもしれない。

では、次はどうか?

上から下りてきた仕事を、せめて同じ状態で下に渡すこと。

そこに新たにムダな仕事を追加しないこと。

見栄えが良いように過剰に整えさせたり、報告しやすいように不要なデータを集めさせたり、そのような行為をせめてしないこと。

それだけでも現在のような状況から改善することができるのではないだろうか?

意味はないが、意思はある

僕は多くの中間管理職がブルシット・ジョブの片棒を担いでいると思っている。

そして、そのような行為の中に僕自身も含まれている。

特に疲れている時などは、何も考えず、流れに身を任せてしまうことだってある。

それをやめようと思っている。

繰り返すが、そこに意味や効果はないとは思う。

「じゃあ、何でやるのか?」と問われても、有効な回答は思い浮かばない。

「ただやりたくないからやらない」

それだけである。

でも、意味ではなく意思があることこそが大事なのではないかとも思っている。

自分の考えを日々の仕事の中に混ぜ込むこと。

そうでなければ存在している意味すらないから。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

意味を考えると不毛になる。

でも、そこに意思があるなら、救われる可能性がある。

ブルシット・ジョブに囲まれた世界で僕が思うのはそのようなことです。

意思を混ぜ込んでいきましょう。