褒められ慣れていない人が増えたよね?

UnsplashGuillermo Latorreが撮影した写真

自己肯定感の低さ

面談において評価やそのフィードバックを行う際に、最近感じることの1つに、「自己肯定感がいやに低くなったな」ということがある。

これは「実際にそうである」という部分と、「そのように振舞わざるを得ないと考えている」という部分の両方があると思っている。

これは日本人の振る舞い方のデフォルトとしての「謙遜」は捨象した上での話だ。

「いやいや、そんなことはないですよ」

まあ、これはよくある反応であろう。

でも、僕が今回話したいことはそういうことではない。

それを踏まえた上での話である。

何か褒めるようなことを言った際に、その「受け」が上手くできないというか。

そこにはコミュニケーションにおいて「褒められた経験」があまりないという問題が潜んでいるのではないか?

それが自己肯定感の低さにも繋がっているのではないか?

そんな仮説を今日は書いていこうと思っている。

それでは始めていこう。

ちょっと前の若手は自信満々だった

Z世代と呼ばれる人たちや、そのちょっと上の世代の人たち。

僕のチームでは、若手や中堅というのが大体その世代に当たる。

その人たちと話をする際に感じたのが今日のテーマの内容である。

というのも、それよりも更に上の世代の人(ミレニアル世代?)たちはもっと自信家であったように思うからである。

非常に嫌な言い方をすれば、中身がないけれど自信はある、それが当時の若手(今やおじさん)世代のデフォルトな振る舞いであったように記憶している。

でも、そこから下の世代は極端に謙遜するようになった。

そんなことを思う。

本質はどうであれ

もちろん、それは表面的な振る舞いであって、実際に謙虚であるかどうかというのはまた違う問題であるとは思っている。

人間というのはそんなに変わるものではないから。

ただ、コミュニケーション・スタイルとして、彼(彼女)らは極端に自我を抑制することがスタンダードだと思っているように僕には感じられる。

そしてそこには、他者との対立を極端に避ける傾向と共に、単純に褒められる経験が少なかったということが関係しているような気がするのだ。

自己を肯定する

自己肯定感。

これがあるのとないのとでは、生きづらさのレベルが大きく変わる。

あまり肥大化するのもどうかとは思うけれど、適切な自己肯定感は幸せに人生を送っていく為には必要不可欠なものだ。

そして、これは文字通り、「自己を肯定していく」しかないものでもある。

自分が自分を肯定しない限り、自己肯定感は上がらない。

でも、自分を肯定する材料というか、やり方がよくわからない。

そんなことを彼(彼女)らと話をしていると感じることがある。

それは他者との関り方において、自己を肯定できる(または否定してしまう)ような深い交わり方をあまりしていないことが関係しているようにも思う。

何が褒められるに値することなのかがよくわからない、というか。

他者から肯定された経験の少なさ

そこにはもしかしたら「競争の欠如」みたいなことも関係しているのかもしれない。

人と比べることを良しとせず、皆それぞれが個性を持っていて、それを尊重すべきだし、そのまま(ありのまま)でいいんだよねという考え方。

それがミレニアム世代では自信の過剰に、Z世代では自己肯定感の欠如に繋がっているような気がしている。

というか、ミレニアム世代の振る舞いを見て、Z世代はそのようなムーブをしているという方が正確な表現なのかもしれない。

Z世代にも同様に、ある種無防備な自信というものが垣間見られる。

ただ、そこには自信のなさも同時に付帯している。

それは他者から肯定された経験の少なさがきっと関係している。

そんなことを思うのだ。

他者を信頼していない

それを受けて、マネージャーである僕がすべきことの1つに、適切に褒めるということがあるように考えている。

普段から僕のブログを読んで下さっている方に向けてもう少し正確に描写するなら、褒めるのではなく認める必要がある、と感じている。

それは難易度が高いことは事実だ。

彼(彼女)らは何せ褒められ慣れていないので、それをどのように受け止めていいのかわからないから。

でも、それにめげずに、具体的な事例を交えながら伝えていくことが大事なのではないかと思っている。

表現が難しいが、彼(彼女)らは他者をあまり信用していないように僕には思えるから。

ほどほどに付き合う

他者というのは「こんなもの」で、付き合い方も「ほどほど」で、それでいい、というか、その方がいい、というような覚めた見方。

それはそれで彼(彼女)らなりの処世術なのだろう。

でも、それだけでは成長は難しい。

暑苦しいか

他者との交わりは確かに面倒くさい。

色々な問題が生じるのは事実である。

ただ、そのような面倒な回路を経ることでしか得られない栄養のようなものがある。

「そんなものいらね」

その気持ちもわからなくはない。

でも、それを伝え続けるのが僕らの使命なのではないか?

たとえそれが伝わらなくても。

そんなことを思うのである。

何だか暑苦しい話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

自己肯定感の低さは、自分を客観視できていないことと関係しているような気がしています。

というのも、自分を客観視する為には、「第三者」が必要であるからです。

でも、そのような経験(サンプル)が少ない。

だから客観視しようがない。

そんなことを思います。

高すぎる自己肯定感も、低すぎる自己肯定感もどちらも主観的に生きてしまっていることから生じているように思います。

主観的に生きることは大変です。

適切に客観視していきましょう。