割り切ることも大事

UnsplashAlex Padurariuが撮影した写真

全方位に対応できる人なんていない

自分が中年と呼ばれる歳になってきたからかもしれないけれど、色々なことに対して段々と割り切れるようになってきた。

これはネガティブな言い方をすれば「諦め」と言えるのかもしれない。

でも、僕の心境的にはそこまでマイナスでもない。

ポジティブとまでは言えないまでも、フラットというか、「まあ苦手なものは苦手だから仕方がないよね」という感じなのである。

以前の僕であれば、苦手なものも克服しながら全方位に対応できることが良いことだと考えていたと思う。

もちろん、全方位に対応できることが望ましいことには変わりがない。

ただ、一方で「そんな人いないよな」とも思ってしまっているのも事実である。

それはあくまでも理想であって、そのようなことができる人は残念ながら存在しない。

そのように考えるととても気持ちが楽になったし、できる範囲の中で最大限努力すればいいのだと思えるようになった。

今日はそんな話である。

それでは始めていこう。

全科目及第点以上?

得意なことと不得意なこと。

人間だれしもそれがあると思う。

でも、マネジメントという仕事においては、できるだけ幅広く対応することが求められているような気がしている。

全てにおいて及第点以上であるべきだ、というか。

理想と現実

もちろん、一定程度の点数は取れるようにしておくべきだとは思う。

明らかな欠陥のようなものはないに越したことはない、それは事実だろう。

ただ、全て良い点数を取るべきなのかと問われるなら、そんなこともないのではないかと考えている。

というか、「取れたらいいけどね」とは思うものの、それはあまりにも非現実的であるからである。

必要な無理と不必要な無理

自分という人間とそれなりの年月付き合ってきて、それも仕事という場面で付き合ってきて、得意なことは得意であるけれど、苦手なものはとことん苦手であるということが段々とわかってきた。

いや、以前だって気づいてはいたのだけれど、目を背けていたというか、できるだけ意識しないようにしていた、というのが本当のところだろう。

そうやって何とか誤魔化しながら仕事をしてきたのである。

特にマネージャーという仕事に就いてからはその傾向が顕著であったように思う。

自分はオールラウンダーで、何をやってもソツなくこなせる、そのような自己像を意識しながら仕事をしてきたように感じる。

そしてそこにはそれなりの無理が生じていたように思う。

それはある意味では必要な無理ではあったと思うものの、もう無理しなくてもいいのではないか(というか、無理したって良くならないよな)というのが現在地点なのである。

ダメなものはダメ

結局のところ、無理したところで苦手なものは苦手だし、上手くできないものは上手くできない。

取り繕ったところで、それは誤魔化しようがない。

そして、何よりもストレスフルである。

だったら、そんなものに注力するのではなく、得意なことに精力を傾けた方がいいのでは?

そんな風に思うのだ。

リアクションの仕方は変えられる

万能主義の呪縛から解き放たれると、仕事というものに対するスタンスが変わってくる。

もちろん、マネージャーという仕事において、自分から仕事を選ぶことはなかなか難しい。

大抵は受け身というか、リアクションから始まるのがマネジメントという仕事ではある。

でも、そのリアクションの仕方というか、度合いについてはある程度軽重付けられるようにも感じている。

得意なものは大きく(深く)、不得意なものは小さく(浅く)。

そのような抑揚によって、自分の仕事にリズムを付けていくこと。

不得意なものに近寄らない

それはある意味では「管理職罰ゲーム論からの離脱」であるとも言える。

管理職が罰ゲームであることは否定しないけれど、その罰ゲームの中においても得意なものと不得意なものはあるし、できるだけ不得意なものに近寄らないようにすることはとても大事なことであると僕は考えている。

もちろん、出会い頭にくらってしまうことはある。

でも、その関与度合いについてはある程度までは調整可能である。

そして、そのような割り切りができると、管理職という仕事を俯瞰から見られるようにもなる。

俯瞰して見ること

僕からすれば、多くの人は管理職という仕事に対してのめり込み過ぎている。

その渦の中に飲まれているからより一層罰ゲームだと感じるし、抜け出せないものだと思っているように見受けられる。

確かにそういう要素は多分にあるだろう。

でも、ちょっと引いてみると、その捉え方を変えてみると、管理職という仕事であってもその様相は変わってくる。

何よりも、不出来な自分を許せるようになる。

ネガティブではない諦め

そうなのだ。

仕事の内容はもしかしたら変わらないのかもしれない。

罰ゲームは罰ゲームのまま、そこにあり続けるのかもしれない。

ただ、それに対する向き合い方は変えることができる。

そして、そこにいる不器用な自分に対する許しのようなものを得ることができる。

それは(冒頭にも書いたように)「諦め」と言えば諦めではある。

でも、そういう諦めがあってもいいのではないかと僕は考えている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

力の上手な抜き方。

中年になって良かったことの1つにこれがあります。

若い頃の僕は完璧主義者で、それが自分の限界値を縛っていたようにも思います。

でも、力が入っているよりも、力が抜けている方が、実は高い出力を出すことができます。

適切に割り切っていきましょう。