感情に配慮すること・しないこと

UnsplashОлег Морозが撮影した写真

感情に配慮しない方が有効! でも…

部下の感情に配慮するか、しないか。

これは二者択一ではないものの、マネジメントの方向性を決定づける要因の1つだと僕は考えている。

そして、結論から申し上げるなら、部下の感情に配慮しない方がマネジメントは有効に機能する。

「ただ…」というのが今日の話である。

何だかよくわからないかもしれないけれど、とりあえず始めていこう。

感情を理解するところまではOK!

HSP傾向。

医師に判定して貰った訳ではないけれど、仕事をしていると僕はそういった傾向を持っていると感じる場面が多々ある。

そしてそれは営業という職種においては有利に働くと考えてきたし、今でも考えている。

また、マネジメントという仕事においても、一定程度有利ではないかとも思っている。

ただ、今日のテーマはそれとは真逆の話である。

というか、その延長線上の話と言えるのかもしれない。

相手の感情を理解するところまでは行ってもいい。

その先でどうするか、というのが今日の話である。

その先でどうするか?

もちろん、相手の感情に気付かず、そのまま無頓着にコトを勧められたらいいのかもしれない。

でも、それはそれで別の問題が生じそうな気もしている。

だとすると、少なくとも感情の機微には気づけた方がいい、とまでは言えるのかもしれない。

ただ、その先の選択においては十分に気を付ける必要がある。

そんなことを考えている。

冷徹な判断

マネジメントにおいては、時に冷徹な判断が求められる。

それは部下にとっては過酷な状況を意味する場合がある。

それでもそれを実行できるか?

そこにマネージャーとしての分かれ目があるような気がしている。

感情が邪魔をする

ここで「将来的には部下の為になるから…」というような甘えた考えを持ってはならない。

それは現時点においても、将来時点においても、部下の為にはならない選択である。

でも、時にそのような決断をしなければならないことがある。

そういう時に感情が邪魔をする。

なまじっか部下の感情を理解できるが故、それを想像できるが故、決断が鈍る場合がある。

それってマネージャーとしてどうなのだろうか?

僕はそんなことを思う。

そして同時に、別の道はないのだろうかとも思ってしまう。

完全に合理的な判断を人間がやる意味とは?

「判断」というのは、マネジメントにおいて重要な仕事の1つだ。

そしてそれは「個人」というよりも、「組織」のことを考えて行われるべきものであるとも思う。

でも、ここに感情が入る。

そうするとその判断のキレのようなものが失われる可能性が生じる。

それはそれで問題であると僕は思う。

ただ、完全に感情を排した判断というのはAIに近接するし、それなら人間が判断を行う意味や意義というのはあるのだろうか、ということも同時に考えてしまう。

合理性という意味において、僕たちはAIには叶わない。

ただ、だからと言って、それだけでAIよりも劣っているということにはならないはずだ。

ボラティリティを呼び込む

僕は10年マネージャーをやってきて、部下の感情の大切さ(とそれを理解することの重要性)をわかっているつもりだ。

もちろん、感情に「流されてしまう」のは論外であるとは思う。

でも、その感情を理解し、適切に配慮することで、思いもかけないパフォーマンスを発揮するということは起き得る。

それは言ってみればボラティリティみたいなものであって、事前に予見できるものではないのかもしれない。

ただ、その予想外の反応や行動は、文字通り想像を超えた成果をもたらす場合がある。

それを信じて判断を行うという道もあるのではないか、と僕は考えている。

迂回的なサイコパス性

合理性を突き詰めた判断というのは、経営者っぽいというか、マネジメントっぽい響きをもたらすし、確かにその方が適切な場合も多い。

でも、それだけでは上に立つ者はいけないのではないかと僕は考えている。

そして、それは「甘さ」とは違うものだとも思っている。

言い方は悪いが、部下の感情に配慮することで、チームの成果が最大化するのであれば、それを適切に使えばいい。

それはある意味では、合理的な判断とすら言える。

結局のところ、成果の最大化が問題なのであって、感情に配慮することが成果の最大化に資するのであれば利用するだけ利用すればいい。

そのような迂回的なサイコパス性。

でも、それはサイコパスなだけでなく、結果として部下の為にもなり得るのではないか?

そんなマネジメントをできないかと僕は考えている。

「合理性の追求が最善」という判断は合理的ではない

と言っても、そこまで考えて判断を行っているマネージャーはあまり多くない。

合理性の追求こそが最善だと思っている者ばかりだ。

そういう者は感情が混じることを劣位の判断だと考えているような気がする。

一見すると、それは正しい。

また、その瞬間においては最善なのかもしれない。

でも、その後の成果まで計測してはいないような気もしている。

その「合理的」な判断によって、本当に成果は向上したのか?

そこまで検証しなければ、それが本当の意味において合理的だったかは判然としないはずだ。

「感情に配慮する」という言葉だけで、それではダメだと一刀両断するのは違うのではないか?

僕はそのように思うのである。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

「合理的な判断を突き詰めた先にあるものは実は合理的ではない」

本文を纏めるならそういうことなのかもしれません。

僕は投資経験が長いこともあって、ボラティリティというものに過度な信頼を置いています。

ボラティリティがあるからこそ、成果が等比級数的になる。

感情というのは、僕からすればその1つの要素です。

感情に配慮するという一見おかしな成果至上主義。

そのようなサイコパス性。

それは「情」とか「甘さ」とかいう次元の話ではありません。

使えるものは何でも使っていきましょう。