過剰適応もまた問題

UnsplashBernd 📷 Dittrichが撮影した写真

テンプレ反応の功罪

会社員としての経験が長くなると、反応がテンプレ化してくるように感じている。

そして、それが望ましいと捉えられているというか。

これは反応というよりも反射に近い感じである。

会社が求めるものを先回りし、それに対する最適解を常に出し続ける行為。

それは確かに優秀さの証明になるのかもしれない。

でも、一方で、そのようなテンプレ反応(反射)を繰り返してきたことが創造性を奪い、日本を30年以上に亘る低迷に導いてしまったのではないかとも思う。

考えるよりも反応(反射)する方が容易いし、速い。

でも、その容易さや速さって、本当に良いものなのだろうか?

予測可能だからこそそれができているのではないか?

今日はそんなことを書いていこうと考えている。

それでは始めていこう。

イエスマンの再生産

「自我は不要」

会社員、特にマネージャーとして働いているとそんなことを思う。

会社や上司の指示に唯々諾々と従い、疑問も持たずに働いている方が楽であるし、評価も高い。

それが現実であると思う。

そして、そのような仕事をしてきた人が偉くなり、同じような人を評価することで、この構造が再生産されていく。

確かに、自分自身の考えや価値観を持っている人は組織には馴染みづらいし、扱いも面倒である。

なので、そういう人を排除して、イエスマンだけを重用していく。

結果、組織に上手に適応できた人が大多数となる。

答えが存在しない時代に、答えが存在しないことを想像できない人しかいない

これは一見とても効率的な組織に見える。

「右向け右!」と言えば、皆がその方向を向き、指示通りに働くから。

それは昭和時代のように、「答え」がある種明確であった時代ならば有効だったのかもしれない。

でも、現代はそうではない。

「答え」など存在しない。

ただ、「答え」が存在しないことなど想像もしえない人たちしか残っていない。

ここに現代日本社会の問題点があるような気がしている。

答えがあるかのように振舞う社会

皆が皆、答えがあることに過剰適応してしまった結果、答えがないという状態が信じられず、まるでまだ答えがあるかのように振舞うようになってしまった社会。

「答えは必ずあるはずだ!」

「それが見つけられないのはお前らが無能だからだ!」

そのような考え方。

もしかしたら、そのような声明には一理あるのかもしれない。

でも、僕にはとても旧時代的というか、ナンセンスに感じられる。

裸の王様

それは寓話みたいな話だ。

王様は裸なのだ。

そこに服があるように装ってはいけない。

たとえそれが大きな破滅に向かうとしても。

僕はそのように思う。

等速の概念

反射的な反応を繰り返していくと、人はどんどんと考えなくなっていく。

考えるという行為はスピードを落とすことと同義であり、スピードを落とすことは資本主義社会において死に近づく行為であるから。

でも、ここには「等速の概念しかない」と僕は思う。

確かに、物事が等速で進んでいくなら、一旦落としたスピードの差を埋めることは不可能であり、資本主義社会においてその遅れは致命的なものになるだろう。

ただ、それが等速ではないとしたら、景色は大きく変わるのではないか?

例えば、考えることによってその後等比級数的に速度が上がるのであれば、そこに時間をかけることは無駄ではないのでは?

というか、それこそが答えのない時代において有効な考え方なのではないか?

そんな風に思うのだ。

慣性の法則とプロパガンダ

しかしながら、ある状態に過剰適応してしまうと、その状態を維持したくなるのが人間という生き物である(というか、生物というのは元来そういうものなのかもしれない)。

そこには慣性の法則が働く。

そして、このような現状維持バイアスによって、物事を見る目は歪んでいく。

それはまるで戦時中のプロパガンダのように僕には聞こえる。

「我が社はとても良い状態だ!」

「連戦連勝だ!」

そこに出てくるデータは、都合の良い部分だけが切り取られ、確かにそこだけを見えれば当社は勝ち続けているように見える。

でも、その前後にもデータは存在する。

そして、そこまで拡張してデータを見れば、負けていることは一目瞭然なのだ。

しかしながら、組織に過剰適応した者達は絶対にそのデータを持ち出してくることはない。

自分達の負けを直視したくないから。

失敗したことを認めたくないから。

ただ、僕は思うのだ。

そのような信憑によって日本は敗戦したのではなかったのか、と。

自分を否定することになったとしても、現状と向き合いたい

僕はデータを直視したい。

それに基づいて、明日からの方向性を決めていきたい。

それが仮に過去を否定するとしても。

過剰適応してしまった自分を否定することに繋がったとしても。

確かにそれは耐え難い痛みを伴うものなのかもしれない。

自分自身が崩壊するような、そんな不安感を覚えるのも最もであるとも思う。

ただ、それなくして、現代を生き延びることは不可能だ。

カタストロフィの手前で

これは誰かを糾弾したいからではない。

単純にその方が建設的であるからだ。

でも、一旦進んでしまったなら、カタストロフィまで行かなければ気づけないというのが我々日本人の特性でもある。

「それをやめませんか?」というのが僕からの提案である。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

「効率化の究極は考えないことである」

コスパ至上主義者を見るたびに、僕はそう思ってしまいます。

「考えなければ考えないほど、コストパフォーマンスは向上していく」

「無駄な時間を捨象できればできるほど、パフォーマンスは向上していく」

等速ならね。

屈むからこそジャンプできるのでは?

そこにあるのは想像力のなさです。

現状維持バイアスと、現状が続いていくであろうことに何の疑問も持たない人たち。

世界は等速じゃないぜ?

僕が思うのはそういうことです。

過剰適応は絶滅に近づくことです。

程々に適応してきましょう。