閉じるマネジメント(と開くマネジメント)

UnsplashKaterinaが撮影した写真

開放? 閉鎖?

「マネジメントには開放性が必要だ」

そんなことを思う。

それは多くのマネージャーが「閉じるマネジメント」を行っているからかもしれない。

閉じるマネジメントというのは、文字通りその先が閉じているというか、閉じる方向に向かってしまうというか、とにかく広がりがないイメージを付与してしまうマネジメントのことを指す(ことにする。今そのように決めた)。

これは日々の声掛け一つにも表れる。

その言葉が部下の能力を賦活するものなのか、そうでないものなのか。

もっと言えば、減衰させてしまうものなのか。

1つ1つの影響はそこまで大きくないのかもしれない。

でも、それが毎日積み重なっていくと、チームへの影響は甚大である。

今日はそんな話をしていこうと考えている。

それでは始めていこう。

爽やかな風が吹きそうな雰囲気

明るさや希望を与えること。

それがマネジメントには重要なのではないかと思っている。

爽やかな風が吹きそうな雰囲気というか。

その方向に向かって行けばいいことがありそうと思わせられること。

それが今回のテーマである開くマネジメントというものに繋がっていく。

ジワジワと精神を蝕んでいく言葉

一方で、閉じるマネジメントというのは、その逆である。

暗く、失望感や絶望感に繋がるマネジメント。

そこまで行かなくても、やる気を削ぐようなマネジメント。

「いい感じでやっておいてよ」

「指示通りにやればいいから」

そのような言葉。

字面だけ見ればそこまで大きな問題にはならない言葉であるように思えるけれど、そのような「閉じた言葉」というのは、部下のやる気を確実に削いでいく。

それは大きなダメージを与えるというよりも、ジワジワと精神を蝕んでいく、そんなイメージである。

言っている当人もそんなこと意識せずに使っているし、部下だって一々それに反応している訳ではない。

でも、閉じている。

その先が暗くなっている。

そういう言葉が職場にはたくさん溢れている。

そんなことを僕は思う。

前例踏襲は安牌だし楽

マネジメントをやっていると、前例踏襲が安牌だし、楽だなと正直に思う。

波風も立たないし、リスクも負わないし。

でも、先の方が段々と暗くなってくるイメージはそこにある。

しかしながら、多くの人はそんなことなど思いもしないようだ。

前例踏襲がリスク回避的行動であることを意識すらしていないというか。

リスク回避的マネジメント

そういう意味では、閉じるマネジメントというのはリスク回避的マネジメントと言い換えることができるのかもしれない。

できるだけリスクを負わず、その気配すら感じさせず、日々を日々として淡々と乗り切っていくこと。

何事も起こらないことが最善であるとして、毎日をやり過ごしていくこと。

確かにマネジメントにおいて何も起こらないというのは良いことではある。

でも、もしそれがリスク回避行動によってもたらされているものであるとするなら、ちょっと考える必要はあるように思う。

取るに足らない後退の累積

短期的に見れば、1つ1つのリスク回避行動によって、何かが明確に失われる訳ではない。

言ってみれば、取るに足らないような後退だろう。

ただ、それが積み重なると、その後退はどんどんと大きくなっていく。

結果、気が付けば大きな乖離となっている。

でも、その時にはその人はもういないのだ。

皆が在任期間のことだけを考えた結果、この社会が現出した

「自分の在任期間のことしか考えていない」

それが閉じるマネジメントを行う者の大きな特徴である。

これは何も当社だけで見られる特徴ではない。

皆そうなのだ。

自分の在任期間だけを平穏無事に乗り切ること。

それが最大のミッションであり、使命である。

そのような振る舞いが多くの分野で見られた結果、日本社会はどんどんと「閉じて」いった。

その繰り返しが失われた30年である。

誰かが悪いのではない。我々が悪いのだ。

そこには未来への展望がなくなっている。

ようやく最近になってそれが変わる気配がしてきたけれど、それぞれの現場にいるマネージャー達が無意識的に閉じたマネジメントを行ったことによって、このような社会が現出してしまった、僕はそのように思う。

「誰か」が悪いのではない。

「我々」が悪いのだ。

その片棒を(無意識的とはいえ)担いでしまったのだから。

それをやめないか?

というのが、僕からの提案である。

可能な限りのリスクを取ろう

閉じたマネジメントをやめて、マネジメントを開いていく。

リスク回避行動をやめて、リスクを取っていく。

それぞれがそれぞれの持ち場において、可能な限りのリスクを少しずつでも取っていくこと。

その累積によって、日本社会が変わっていくこと。

それを僕は展望している。

僕たちなら変えていける(というか、僕たちしか変えていけない)

ちょっとしたことである。

1つ1つの行動には大した違いはない。

でも、それが多くの人数で行われ、日々が積み重なれば、きっと大きな変化に繋がっていく。

もしかしたら、そこには「自分が変えた!」というようなわかり易い達成感はないのかもしれない。

ただいつの間にか変わっている。

それも良い方向に。

そんなことを僕は夢想している。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

「この日本社会は僕たちが作り上げたものである」

僕はそのような世界観を持っています。

「そして、それがもし望ましいものでないと感じるなら、そこに僕は加担している(共犯者である)」

それを僕は共犯者的思考論と呼んでいます。

でも、これを裏返せば、僕たちの振る舞いによって世界を変えられるということでもあります。

「それぞれがそれぞれの持ち場で、ちょっとしたリスクテイクを行っていけば、日本社会はもう少し面白くなるはずだ」

そのような青臭い夢想を抱えながら、僕はこのブログを書いています。

共犯者になって頂けたら幸いです。